すが、まだ明日《あした》の支度《したく》をしませんから……」
 けれども、敵手《あいて》が敵手だから、一向|利《き》かない。
「明日《あした》の支度? 明日の支度なぞはどうでも宜いさ」
 と昇はお勢の傍《そば》に陣を取ッた。
「本統にまだ……」
「何をそう拗捩《すね》たンだろう? 令慈《おっかさん》に叱《しか》られたね? え、そうでない。はてな」
 と首を傾《かたぶ》けるより早く横手を拍《う》ッて、
「あ、ああわかッた。成《な》、成《な》、それで……それならそうと早く一言云えばいいのに……なンだろう大方かく申す拙者|奴《め》に……ウ……ウと云ッたような訳なンだろう? 大蛤《おおはまぐり》の前じゃア口が開《あ》きかねる、――これやア尤《もっとも》だ。そこで釣寄《つりよ》せて置いて……ほんありがた山の蜀魂《ほととぎす》、一声漏らそうとは嬉《うれ》しいぞえ嬉しいぞえ」
 と妙な身振りをして、
「それなら、実は此方《こっち》も疾《とう》からその気ありだから、それ白痴《こけ》が出来合|靴《ぐつ》を買うのじゃないが、しッくり嵌《は》まるというもンだ。嵌まると云えば、邪魔の入らない内だ。ちょッくり抱《だ》ッこのぐい極《ぎ》めと往きやしょう」
 と白らけた声を出して、手を出しながら、摺寄《すりよ》ッて来る。
「明日の支度が……」
 とお勢は泣声を出して身を縮ませた。
「ほい間違ッたか。失敗、々々」
 何を云ッても敵手《あいて》にならぬのみか、この上手を附けたら雨になりそうなので、さすがの本田も少し持あぐねたところへ、お鍋が呼びに来たから、それを幸いにして奥坐舗へ還ッてしまッた。
 文三は昇が来たから安心を失《な》くして、起ッて見たり坐ッて見たり。我他彼此《がたびし》するのが薄々分るので、弥以《いよいよもって》堪《たま》らず、無い用を拵《こしら》えて、この時二階を降りてお勢の部屋の前を通りかけたが、ふと耳を聳て、抜足をして障子の間隙《ひずみ》から内を窺《のぞい》てはッと顔※[#白ゴマ点、178−15]お勢が伏臥《うつぶし》になッて泣……い……て……
「Explanation《エキスプラネーション》(示談《はなしあい》)」と一時に胸で破裂した……

     第十五回

 Explanation《エキスプラネーション》(示談《はなしあい》)、と肚《はら》を極めてみると、大きに胸が透いた。己れの打解けた心で推測《おしはか》るゆえ、さほどに難事とも思えない。もウ些《すこ》しの辛抱、と、哀《かなし》む可《べ》し、文三は眠らでとも知らず夢を見ていた。
 機会《おり》を窺《み》ている二日目の朝、見知り越しの金貸が来てお政を連出して行く。時機到来……今日こそは、と領《えり》を延ばしているとも知らずして帰ッて来たか、下女部屋の入口で「慈母《おッか》さんは?」と優しい声。
 その声を聞くと均《ひと》しく、文三|起上《たちあが》りは起上ッたが、据《す》えた胸も率《いざ》となれば躍る。前へ一歩《ひとあし》、後《うしろ》へ一歩《ひとあし》、躊躇《ためらい》ながら二階を降りて、ふいと縁を廻わッて見れば、部屋にとばかり思ッていたお勢が入口に柱に靠着《もた》れて、空を向上《みあ》げて物思い顔……はッと思ッて、文三立ち止まッた。お勢も何心なく振り反ッてみて、急に顔を曇らせる……ツと部屋へ入ッて跡ぴッしゃり。障子は柱と額合《はちあ》わせをして、二三寸跳ね返ッた。
 跳ね返ッた障子を文三は恨めしそうに凝視《みつ》めていたが、やがて思い切りわるく二歩三歩《ふたあしみあし》。わななく手頭《てさき》を引手へ懸けて、胸と共に障子を躍らしながら開けてみれば、お勢は机の前に端坐《かしこま》ッて、一心に壁と睨《にら》め競《くら》。
「お勢さん」
 と瀬蹈《せぶみ》をしてみれば、愛度気《あどけ》なく返答をしない。危きに慣れて縮めた胆《きも》を少し太くして、また、
「お勢さん」
 また返答をしない。
 この分なら、と文三は取越して安心をして、莞爾々々《にこにこ》しながら部屋へ入り、好き程の所に坐を占めて、
「少しお噺《はなし》が……」
 この時になッてお勢は初めて、首の筋でも蹙《つま》ッたように、徐々《そろそろ》顔を此方《こちら》へ向け、可愛《かわい》らしい眼に角を立てて、文三の様子を見ながら、何か云いたそうな口付をした。
 今打とうと振上げた拳《こぶし》の下に立ッたように、文三はひやりとして、思わず一生懸命にお勢の顔を凝視《みつ》めた。けれども、お勢は何とも云わず、また向うを向いてしまッたので、やや顔を霽《は》らして、極《きま》りわるそうに莞爾々々《にこにこ》しながら、
「この間は誠にどう……」
 もと云い切らぬうち、つと起き上ッたお勢の体が……不意を打たれて、ぎょッとする、女帯が、友禅《ゆうぜ
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