のだから、橋渡しをして貰《もら》ッて課長の所へ往《い》ッたらばどうだと仰しゃるのです。そりゃ成程慈母さんの仰しゃる通り今|茲処《ここ》で私さえ我《が》を折れば私の身も極《き》まるシ、老母も安心するシ、『三方四方』(ト言葉に力瘤《ちからこぶ》を入れて)円く納まる事だから、私も出来る事ならそうしたいが、シカシそう為《し》ようとするには良心を締殺《しめころ》さなければならん。課長の鼻息《びそく》を窺《うかが》わなければならん。そんな事は我々には出来んじゃ有りませんか」
「出来なければそれまでじゃ有りませんか」
「サ其処《そこ》です。私には出来ないが、シカシそうしなければ慈母さんがまた悪い顔をなさるかも知れん」
「母が悪い顔をしたッてそんな事は何だけれども……」
「エ、関《かま》わんと仰しゃるのですか」
 ト文三はニコニコと笑いながら問懸けた。
「だッてそうじゃ有りません。貴君《あなた》が貴君の考どおりに進退して良心に対して毫《すこ》しも耻《はず》る所が無ければ、人がどんな貌《かお》をしたッて宜《い》いじゃ有りませんか」
 文三は笑いを停《とど》めて、
「デスガ唯《ただ》慈母さんが悪い顔をなさるばかりならまだ宜いが、或《あるい》はそれが原因と成ッて……貴嬢にはどうかはしらんが……私の為《た》めには尤《もっと》も忌《い》むべき尤も哀《かなし》む可《べ》き結果が生じはしないかと危ぶまれるから、それで私も困まるのです……尤もそんな結果が生ずると生じないとは貴嬢の……貴嬢の……」
 ト云懸けて黙してしまッたが、やがて聞えるか聞えぬ程の小声で、
「心一ツに在る事だけれども……」
 ト云ッて差俯向《さしうつむ》いた、文三の懸けた謎々《なぞなぞ》が解けても解けない風《ふり》をするのか、それともどうだか其所《そこ》は判然しないが、ともかくもお勢は頗《すこぶ》る無頓着な容子《ようす》で、
「私にはまだ貴君の仰しゃる事がよく解りませんよ。何故《なぜ》そう課長さんの所へ往《ゆく》のがお厭《いや》だろう。石田さんの所へ往てお頼みなさるも課長さんの所へ往てお頼みなさるも、その趣は同一じゃ有りませんか」
「イヤ違います」
 ト云ッて文三は首を振揚げた。
「非常な差が有る、石田は私を知ているけれど課長は私を知らないから……」
「そりゃどうだか解りゃしませんやアネ、往て見ない内は」
「イヤそりゃ今までの経験で解ります、そりゃ掩《おお》う可《べか》らざる事実だから何だけれども……それに課長の所へ往こうとすれば、是非とも先《ま》ず本田に依頼をしなければなりません、勿論《もちろん》課長は私も知らない人じゃないけれども……」
「宜いじゃ有りませんか、本田さんに依頼したッて」
「エ、本田に依頼をしろと」
 ト云ッた時は文三はモウ今までの文三でない、顔色《がんしょく》が些し変ッていた。
「命令するのじゃ有りませんがネ、唯依頼したッて宜いじゃ有りませんか、と云うの」
「本田に」
 ト文三はあたかも我耳を信じないように再び尋ねた。
「ハア」
「あんな卑屈な奴に……課長の腰巾着《こしぎんちゃく》……奴隷《どれい》……」
「そんな……」
「奴隷と云われても耻とも思わんような、犬……犬……犬猫同前な奴に手を杖《つ》いて頼めと仰しゃるのですか」
 ト云ッてジッとお勢の顔を凝視《みつ》めた。
「昨夜《ゆうべ》の事が有るからそれで貴君はそんなに仰しゃるんだろうけれども、本田さんだッてそんなに卑屈な人じゃ有りませんワ」
「フフン卑屈でない、本田を卑屈でない」
 ト云ッてさも苦々しそうに冷笑《あざわら》いながら顔を背《そむ》けたが、忽《たちま》ちまたキッとお勢の方を振向いて、
「何時《いつ》か貴嬢何と仰しゃッた、本田が貴嬢に対《むか》ッて失敬な情談を言ッた時に……」
「そりゃあの時には厭な感じも起ッたけれども、能《よ》く交際して見ればそんなに貴君のお言いなさるように破廉耻《はれんち》の人じゃ有りませんワ」
 文三は黙然《もくねん》としてお勢の顔を凝視めていた、但《ただ》し宜《よろ》しくない徴候で。
「昨夜《ゆうべ》もアレから下へ降りて、本田さんがアノー『慈母《おっか》さんが聞《きく》と必《きっ》と喧《やか》ましく言出すに違いない、そうすると僕は何だけれどもアノ内海が困るだろうから黙ッていてくれろ』と口止めしたから、私は何とも言わなかッたけれども鍋がツイ饒舌《しゃべ》ッて……」
「古狸奴《ふるだぬきめ》、そんな事を言やアがッたか」
「またあんな事を云ッて……そりゃ文さん、貴君が悪いよ。あれ程貴君に罵詈《ばり》されても腹も立てずにやっぱり貴君の利益を思ッて云う者を、それをそんな古狸なんぞッて……そりゃ貴君は温順だのに本田さんは活溌《かっぱつ》だから気が合わないかも知れないけれども、貴君と気の合わないも
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