く苦しんでいる内に文三の屈托も遂にその極度に達して、忽ち一ツの思案を形作ッた。所謂《いわゆる》思案とは、お勢に相談して見ようと云う思案で。
蓋し文三が叔母の意見に負きたくないと思うも、叔母の心を汲分けて見れば道理《もっとも》な所もあるからと云い、叔母の苦《にが》り切ッた顔を見るも心苦しいからと云うは少分《しょうぶん》で、その多分は、全くそれが原因《もと》でお勢の事を断念《おもいき》らねばならぬように成行きはすまいかと危ぶむからで。故《ゆえ》に若しお勢さえ、天は荒れても地は老ても、海は枯《か》れても石は爛《ただ》れても、文三がこの上どんなに零落しても、母親がこの後どんな言《こと》を云い出しても、決してその初《はじめ》の志を悛《あらた》めないと定《きま》ッていれば、叔母が面《つら》を脹《ふく》らしても眼を剥出《むきだ》しても、それしきの事なら忍びもなる。文三は叔母の意見に背《そむ》く事が出来る。既に叔母の意見に背く事が出来れば、モウ昇に一着を輸する必要もない。「かつ窮して乱するは大丈夫の為《す》るを愧《はず》る所だ」
そうだそうだ、文三の病原はお勢の心に在る。お勢の心一ツで進退去就を決しさえすればイサクサは無い。何故最初から其処に心附かなかッたか、今と成ッて考えて見ると文三我ながら我が怪しまれる。
お勢に相談する、極めて上策。恐らくはこれに越す思案も有るまい。若しお勢が、小挫折に逢ッたと云ッてその節を移さずして、尚お未《いま》だに文三の智識で考えて、文三の感情で感じて、文三の息気《いき》で呼吸して、文三を愛しているならば、文三に厭な事はお勢にもまた厭に相違は有るまい。文三が昇に一着を輸する事を屑《いさぎよし》と思わぬなら、お勢もまた文三に、昇に一着を輸させたくは有るまい。相談を懸けたら飛だ手軽ろく「母が何と云おうと関《かま》やアしませんやアネ、本田なんぞに頼む事はお罷《よ》しなさいよ」ト云ッてくれるかも知れぬ。またこの後《ご》の所を念を押したら、恨めしそうに、「貴君《あなた》は私をそんな浮薄なものだと思ッてお出でなさるの」ト云ッてくれるかも知れぬ。お勢がそうさえ云ッてくれれば、モウ文三天下に懼《おそ》るる者はない。火にも這入《はい》れる、水にも飛込める。況《いわ》んや叔母の意見に負く位の事は朝飯前の仕事、お茶の子さいさいとも思わない。
「そうだ、それが宜い」
ト云ッて文三|起上《たちあが》ッたが、また立止ッて、
「がこの頃の挙動《そぶり》と云い容子《ようす》と云い、ヒョッとしたら本田に……何してはいないかしらん……チョッ関わん、若しそうならばモウそれまでの事だ。ナニ我《おれ》だッて男子だ、心渝《こころがわり》のした者に未練は残らん。断然手を切ッてしまッて、今度こそは思い切ッて非常な事をして、非常な豪胆を示して、本田を拉《とりひ》しいで、そしてお勢にも……お勢にも後悔さして、そして……そして……そして……」
ト思いながら二階を降りた。
が此処が妙で、観菊行《きくみゆき》の時同感せぬお勢の心を疑ッたにも拘《かかわ》らず、その夜帰宅してからのお勢の挙動《そぶり》を怪んだのにも拘らず、また昨日《きのう》の高笑い昨夜《ゆうべ》のしだらを今|以《もっ》て面白からず思ッているにも拘らず、文三は内心の内心では尚おまだお勢に於て心変りするなどと云うそんな水臭い事は無いと信じていた。尚おまだ相談を懸ければ文三の思う通りな事を云って、文三を励ますに相違ないと信じていた。こう信ずる理由が有るからこう信じていたのでは無くて、こう信じたいからこう信じていたので。
第十二回 いすかの嘴《はし》
文三が二階を降りて、ソットお勢の部屋の障子を開けるその途端《とたん》に、今まで机に頼杖《ほおづえ》をついて何事か物思いをしていたお勢が、吃驚《びっくり》した面相《かおつき》をして些《すこ》し飛上ッて居住居《いずまい》を直おした。顔に手の痕《あと》の赤く残ッている所を観ると、久しく頬杖をついていたものと見える。
「お邪魔じゃ有りませんか」
「イイエ」
「それじゃア」
ト云いながら文三は部屋へ這入《はい》ッて坐に着いて
「昨夜《さくや》は大《おおき》に失敬しました」
「私《わたくし》こそ」
「実に面目が無い、貴嬢《あなた》の前をも憚《はばか》らずして……今朝その事で慈母《おっか》さんに小言を聞きました。アハハハハ」
「そう、オホホホ」
ト無理に押出したような笑い。何となく冷淡《つめた》い、今朝のお勢とは全で他人のようで。
「トキニ些し貴嬢に御相談が有る。他の事でも無いが、今朝慈母さんの仰《おっ》しゃるには……シカシもうお聞きなすッたか」
「イイエ」
「成程そうだ、御存知ない筈《はず》だ……慈母さんの仰しゃるには、本田がアア信切に云ッてくれるも
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