か、君にももう自分の悪かッた事は解ッているだろう」
「失敬な事を云うな、降りろと云ッたら降りたが宜じゃないか」
「モウお罷《よ》しなさいよ」
「ハハハお勢さんが心配し出した。シカシ真《しん》にそうだネ、モウ罷した方が宜い。オイ内海、笑ッてしまおう。マア考えて見給え、馬鹿気切ッているじゃないか。忠告の仕方が気に喰わないの、丹治と云ッたが癪《しゃく》に障るのと云ッて絶交する、全《まる》で子供の喧嘩《けんか》のようで、人に対して噺《はな》しも出来ないじゃないか。ネ、オイ笑ッてしまおう」
 文三は黙ッている。
「不承知か、困ッたもんだネ。それじゃ宜ろしい、こうしよう、我輩が謝まろう。全くそうした深い考《かんがえ》が有ッて云ッた訳じゃないから、お気に障ッたら真平《まっぴら》御免下さい。それでよかろう」
 文三はモウ堪え切れない憤《いか》りの声を振上げて、
「降りろと云ッたら降りないか」
「それでもまだ承知が出来ないのか。それじゃ仕様がない、降りよう。今何を言ッても解らない、逆上《のぼせあが》ッているから」
「何だと」
「イヤ此方の事だ。ドレ」
 ト起上《たちあが》る。
「馬鹿」
 昇も些しムッとした趣きで、立止ッて暫らく文三を疾視付《にらみつ》けていたが、やがてニヤリと冷笑《あざわら》ッて、
「フフン、前後忘却の体《てい》か」
 ト云いながら二階を降りてしまッた。お勢も続いて起上ッて、不思議そうに文三の容子《ようす》を振反ッて観ながら、これも二階を降りてしまッた。
 跡で文三は悔しそうに歯を喰切《くいしば》ッて、拳《こぶし》を振揚げて机を撃ッて、
「畜生ッ」
 梯子段《はしごだん》の下あたりで昇とお勢のドッと笑う声が聞えた。

     第十一回 取付く島

 翌朝朝飯の時、家内の者が顔を合わせた。お政は始終顔を皺《しか》めていて口も碌々《ろくろく》聞かず、文三もその通り。独りお勢|而已《のみ》はソワソワしていて更らに沈着《おちつ》かず、端手《はした》なく囀《さえず》ッて他愛《たわい》もなく笑う。かと思うとフト口を鉗《つぐ》んで真面目《まじめ》に成ッて、憶出《おもいだ》したように額越《ひたえご》しに文三の顔を眺《なが》めて、笑うでも無く笑わぬでもなく、不思議そうな剣呑《けんのん》そうな奇々妙々な顔色《がんしょく》をする。
 食事が済む。お勢がまず起上《たちあが》ッて坐舗《ざしき》を出て、縁側でお鍋に戯《たわぶ》れて高笑をしたかと思う間も無く、忽《たちま》ち部屋の方で低声《ていせい》に詩吟をする声が聞えた。
 益々顔を皺めながら文三が続いて起上ろうとして、叔母に呼留められて又|坐直《すわりなお》して、不思議そうに恐々《おそるおそる》叔母の顔色を窺《うかが》ッて見てウンザリした。思做《おもいなし》かして叔母の顔は尖《とが》ッている。
 人を呼留めながら叔母は悠々《ゆうゆう》としたもので、まず煙草《たばこ》を環《わ》に吹くこと五六ぷく、お鍋の膳《ぜん》を引終るを見済ましてさて漸《ようや》くに、
「他の事でも有りませんがネ、昨日《きのう》私がマア傍《そば》で聞てれば――また余計なお世話だッて叱《しか》られるかも知れないけれども――本田さんがアアやッて信切に言ておくんなさるものを、お前さんはキッパリ断ッておしまいなすッたが、ソリャモウお前さんの事《こっ》たから、いずれ先に何とか確乎《たしか》な見当《みあて》が無くッてあんな事をお言いなさりゃアすまいネ」
「イヤ何にも見当《みあて》が有ッてのどうのと云う訳じゃ有りませんが、唯《ただ》……」
「ヘー、見当も有りもしないのに無暗《むやみ》に辞《ことわ》ッておしまいなすッたの」
「目的なしに断わると云ッては或《あるい》は無考《むかんがえ》のように聞えるかも知れませんが、シカシ本田の言ッた事でもホンノ風評と云うだけで、ナニモ確に……」
 縁側を通る人の跫音《あしおと》がした。多分お勢が英語の稽古《けいこ》に出懸《でかけ》るので。改ッて外出をする時を除くの外は、お勢は大抵母親に挨拶《あいさつ》をせずして出懸る、それが習慣で。
「確にそうとも……」
「それじゃ何ですか、弥々《いよいよ》となりゃ御布告にでもなりますか」
「イヤそんな、布告なんぞになる気遣いは有りませんが」
「それじゃマア人の噂《うわさ》を宛《あて》にするほか仕様が無いと云ッたようなもんですネ」
「デスガ、それはそうですが、シカシ……本田なぞの言事は……」
「宛にならない」
「イヤそ、そ、そう云う訳でも有りませんが……ウー……シカシ……幾程《いくら》苦しいと云ッて……課長の所へ……」
「何ですとえ、幾程《いくら》苦しいと云ッて課長さんの所《とこ》へは往《い》けないとえ。まだお前さんはそんな気楽な事を言てお出《い》でなさるのかえ」
 トお政が層《かさ
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