へ往ッて金を借りて来ようと云うのだ。それじゃこれで別れよう、些《ち》と遊びに遣ッて来給え。失敬」
ト自己《おの》が云う事だけを饒舌《しゃべ》り立てて、人の挨拶《あいさつ》は耳にも懸けず急歩《あしばや》に通用門の方へと行く。その後姿を目送《みおく》りて文三が肚の裏《うち》で、
「彼奴《あいつ》まで我《おれ》の事を、意久地なしと云わんばかりに云やアがる」
第十回 負るが勝
知己を番町の家に訪えば主人《あるじ》は不在、留守居の者より翻訳物を受取ッて、文三が旧《も》と来た路《みち》を引返して俎橋《まないたばし》まで来た頃はモウ点火《ひとも》し頃で、町家では皆|店頭洋燈《みせランプ》を点《とも》している。「免職に成ッて懐淋《ふところざみ》しいから、今頃帰るに食事をもせずに来た」ト思われるも残念と、つまらぬ所に力瘤《ちからこぶ》を入れて、文三はトある牛店へ立寄ッた。
この牛店は開店してまだ間もないと見えて見掛けは至極よかッたが、裏《なか》へ這入《はい》ッて見ると大違い、尤《もっと》も客も相応にあッたが、給事の婢《おんな》が不慣れなので迷惑《まごつ》く程には手が廻わらず、帳場でも間違えれば出し物も後《おく》れる。酒を命じ肉を命じて、文三が待てど暮らせど持て来ない、催促をしても持て来ない、また催促をしてもまた持て来ない、偶々《たまたま》持て来れば後から来た客の所へ置いて行く。さすがの文三も遂《つい》には肝癪《かんしゃく》を起して、厳しく談じ付けて、不愉快不平な思いをして漸《ようや》くの事で食事を済まして、勘定を済まして、「毎度|難有《ありがとう》御座い」の声を聞流して戸外《おもて》へ出た時には、厄落《やくおと》しでもしたような心地がした。
両側の夜見世《よみせ》を窺《のぞ》きながら、文三がブラブラと神保町《じんぼうちょう》の通りを通行した頃には、胸のモヤクヤも漸く絶え絶えに成ッて、どうやら酒を飲んだらしく思われて、昇に辱《はずかし》められた事も忘れ、お勢の高笑いをした事をも忘れ、山口の言葉の気に障ッたのも忘れ、牛店の不快をも忘れて、唯《ただ》※[#「酉+它」、第4水準2−90−34]顔《かお》に当る夜風の涼味をのみ感じたが、シカシ長持はしなかッた。
宿所へ来た。何心なく文三が格子戸《こうしど》を開けて裏《うち》へ這入ると、奥坐舗《おくざしき》の方でワッワッと云う高笑いの声がする。耳を聳《そばだ》てて能《よ》く聞けば、昇の声もその中《うち》に聞える……まだ居ると見える。文三は覚えず立止ッた。「若《も》しまた無礼を加えたら、モウその時は破れかぶれ」ト思えば荐《しき》りに胸が浪《なみ》だつ。暫《しば》らく鵠立《たたずん》でいて、度胸を据《す》えて、戦争が初まる前の軍人の如くに思切ッた顔色《がんしょく》をして、文三は縁側へ廻《めぐ》り出た。
奥坐舗を窺いて見ると、杯盤狼藉《はいばんろうぜき》と取散らしてある中に、昇が背なかに円《まろ》く切抜いた白紙《しらかみ》を張られてウロウロとして立ている、その傍《そば》にお勢とお鍋が腹を抱えて絶倒している、が、お政の姿はカイモク見えない。顔を見合わしても「帰ッたか」ト云う者もなく、「叔母さんは」ト尋ねても返答をする者もないので、文三が憤々《ぷりぷり》しながらそのままにして行過ぎてしまうと、忽《たちま》ち後《うしろ》の方で、
(昇)「オヤこんな悪戯《いたずら》をしたネ」
(勢)「アラ私じゃ有りませんよ、アラ鍋ですよ、オホホホホ」
(鍋)「アラお嬢さまですよ、オホホホホ」
(昇)「誰も彼も無い、二人共|敵手《あいて》だ。ドレまずこの肥満奴《ふとっちょ》から」
(鍋)「アラ私《わたくし》じゃ有りませんよ、オホホホホ。アラ厭《いや》ですよ……アラー御新造《ごしんぞ》さアん引[#「引」は小書き右寄せ]」
ト大声を揚げさせての騒動、ドタバタと云う足音も聞えた、オホホホと云う笑声も聞えた、お勢の荐《しき》りに「引掻《ひっかい》てお遣《や》りよ、引掻て」ト叫喚《わめ》く声もまた聞えた。
騒動《さわぎ》に気を取られて、文三が覚えず立止りて後方《うしろ》を振向く途端に、バタバタと跫音《あしおと》がして、避ける間もなく誰だかトンと文三に衝当《つきあた》ッた。狼狽《あわて》た声でお政の声で、
「オー危ない……誰だネーこんな所《とこ》に黙ッて突立ッてて」
「ヤ、コリャ失敬……文三です……何処《どこ》ぞ痛めはしませんでしたか」
お政は何とも言わずにツイと奥坐舗へ這入りて跡ピッシャリ。恨めしそうに跡を目送《みおく》ッて文三は暫らく立在《たたずん》でいたが、やがて二階へ上ッて来て、まず手探りで洋燈《ランプ》を点じて机辺《つくえのほとり》に蹲踞《そんこ》してから、さて、
「実に淫哇《みだら》だ。叔母や本田は論ずるに
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