ごわうま》、舌戦は文三の得策でない。と云ッてまさか腕力に訴える事も出来ず、
「ハテどうしてくれよう」
 ト殆《ほと》んど口へ出して云いながら、文三がまた旧《もと》の腰掛に尻餅を搗いて熟々《つくづく》と考込んだまま、一時間ばかりと云うものは静まり返ッていて身動きをもしなかッた。
「オイ内海君」
 ト云う声が頭上《とうじょう》に響いて、誰だか肩を叩《たた》く者が有る。吃驚《びっくり》して文三がフッと貌《かお》を振揚げて見ると、手摺《てず》れて垢光《あかびか》りに光ッた洋服、しかも二三カ所|手痍《てきず》を負うた奴を着た壮年の男が、余程|酩酊《めいてい》していると見えて、鼻持のならぬ程の熟柿《じゅくし》臭い香《におい》をさせながら、何時の間にか目前に突立ッていた。これは旧《も》と同僚で有ッた山口|某《なにがし》という男で、第一回にチョイト噂《うわさ》をして置いたアノ山口と同人で、やはり踏外し連の一人。
「ヤ誰かと思ッたら一別以来だネ」
「ハハハ一別以来か」
「大分|御機嫌《ごきげん》のようだネ」
「然り御機嫌だ。シカシ酒でも飲まんじゃー堪《たま》らん。アレ以来今日で五日になるが、毎日酒浸しだ」
 ト云ッてその証拠立の為めにか、胸で妙な間投詞を発して聞かせた。
「何故《なぜ》またそう Despair《デスペヤ》 を起したもんだネ」
「Despair じゃー無いが、シカシ君面白く無いじゃーないか。何等の不都合が有ッて我々共を追出したんだろう、また何等の取得が有ッてあんな庸劣《やくざ》な奴ばかりを撰《えら》んで残したのだろう、その理由が聞いて見たいネ」
 ト真黒に成ッてまくし立てた。その貌を見て、傍《そば》を通りすがッた黒衣の園丁らしい男が冷笑した。文三は些《すこ》し気まりが悪くなり出した。
「君もそうだが、僕だッても事務にかけちゃー……」
「些し小いさな声で咄《はな》し給《たま》え、人に聞える」
 ト気を附けられて俄《にわか》に声を低めて、
「事務に懸けちゃこう云やア可笑《おか》しいけれども、跡に残ッた奴等に敢《あえ》て多くは譲らん積りだ。そうじゃないか」
「そうとも」
「そうだろう」
 ト乗地《のりじ》に成ッて、
「然るに唯《ただ》一種事務外の事務を勉励しないと云ッて我々共を追出した、面白く無いじゃないか」
「面白く無いけれども、シカシ幾程《いくら》云ッても仕様が無いサ」
「仕様が無いけれども面白く無いじゃないか」
「トキニ、本田の云事だから宛にはならんが、復職する者が二三人出来るだろうと云う事だが、君はそんな評判を聞いたか」
「イヤ聞かない。ヘー復職する者が二三人」
「二三人」
 山口は俄に口を鉗《つぐ》んで何か黙考していたが、やがてスコシ絶望気味《やけぎみ》で、
「復職する者が有ッても僕じゃ無い、僕はいかん、課長に憎まれているからもう駄目だ」
 ト云ッてまた暫らく黙考して、
「本田は一等上ッたと云うじゃないか」
「そうだそうだ」
「どうしても事務外の事務の巧《たくみ》なものは違ッたものだネ、僕のような愚直なものにはとてもアノ真似は出来ない」
「誰にも出来ない」
「奴の事だからさぞ得意でいるだろうネ」
「得意も宜いけれども、人に対《むか》ッて失敬な事を云うから腹が立つ」
 ト云ッてしまッてからアア悪い事を云ッたと気が附いたが、モウ取返しは附かない。
「エ失敬な事を、どんな事をどんな事を」
「エ、ナニ些し……」
「どんな事を」
「ナニネ、本田が今日僕に或人の所へ往ッてお髯《ひげ》の塵《ちり》を払わないかと云ッたから、失敬な事を云うと思ッてピッタリ跳付《はねつ》けてやッたら、痩我慢と云わんばかりに云やアがッた」
「それで君、黙ッていたか」
 ト山口は憤然として眼睛《ひとみ》を据えて、文三の貌を凝視《みつ》めた。
「余程《よっぽど》やッつけて遣ろうかと思ッたけれども、シカシあんな奴の云う事を取上げるも大人気《おとなげ》ないト思ッて、赦《ゆる》して置てやッた」
「そ、そ、それだから不可《いかん》、そう君は内気だから不可」
 ト苦々しそうに冷笑《あざわら》ッたかと思うと、忽ちまた憤然として文三の貌を疾視《にら》んで、
「僕なら直ぐその場でブン打《なぐ》ッてしまう」
「打《な》ぐろうと思えば訳は無いけれども、シカシそんな疎暴《そぼう》な事も出来ない」
「疎暴だッて関《かま》わんサ、あんな奴《やつ》は時々|打《な》ぐッてやらんと癖になっていかん。君だから何だけれども、僕なら直ぐブン打ッてしまう」
 文三は黙してしまッてもはや弁駁《べんばく》をしなかッたが、暫らくして、
「トキニ君は、何だと云ッて此方《こっち》の方へ来たのだ」
 山口は俄かに何か思い出したような面相《かおつき》をして、
「アそうだッけ……一番町に親類が有るから、この勢でこれから其処
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