かも廉潔《れんけつ》な心から文三が手を下げて頼まぬと云えば、嫉《ねた》み妬《そね》みから負惜しみをすると臆測《おくそく》を逞《たくましゅ》うして、人も有ろうにお勢の前で、
「痩我慢なら大抵にしろ」
 口惜しい、腹が立つ。余《よ》の事はともかくも、お勢の目前で辱められたのが口惜しい。
「しかも辱められるままに辱められていて、手出《てだし》もしなかッた」
 ト何処でか異《おつ》な声が聞えた。
「手出がならなかッたのだ、手出がなっても為得《しえ》なかッたのじゃない」
 ト文三|憤然《やっき》として分疏《いいわけ》を為出《しだ》した。
「我《おれ》だッて男児だ、虫も有る胆気も有る。昇なんぞは蚊蜻蛉《かとんぼ》とも思ッていぬが、シカシあの時|憖《なま》じ此方《こっち》から手出をしては益々向うの思う坪に陥《はま》ッて玩弄《がんろう》されるばかりだシ、かつ婦人の前でも有ッたから、為難《しにく》い我慢もして遣ッたんだ」
 トは知らずしてお勢が、怜悧《れいり》に見えても未惚女《おぼこ》の事なら、蟻《あり》とも螻《けら》とも糞中《ふんちゅう》の蛆《うじ》とも云いようのない人非人、利の為《た》めにならば人糞をさえ甞《な》めかねぬ廉耻《れんち》知らず、昇如き者の為めに文三が嘲笑されたり玩弄されたり侮辱されたりしても手出をもせず阿容々々《おめおめ》として退《しりぞ》いたのを視て、或《あるい》は不甲斐《ふがい》ない意久地が無いと思いはしなかッたか……仮令《よし》お勢は何とも思わぬにしろ、文三はお勢の手前面目ない、耻《はず》かしい……
「ト云うも昇、貴様から起ッた事だぞ、ウヌどうするか見やがれ」
 ト憤然《やっき》として文三が拳を握ッて歯を喰切《くいしば》ッて、ハッタとばかりに疾視付《にらみつ》けた。疾視付けられた者は通りすがりの巡査で、巡査は立止ッて不思議そうに文三の背長《せたけ》を眼分量に見積ッていたが、それでも何とも言わずにまた彼方《あちら》の方へと巡行して往ッた。
 愕然《がくぜん》として文三が、夢の覚めたような面相《かおつき》をしてキョロキョロと四辺《あたり》を環視《みま》わして見れば、何時《いつ》の間にか靖国《やすくに》神社の華表際《とりいぎわ》に鵠立《たたずん》でいる。考えて見ると、成程|俎橋《まないたばし》を渡ッて九段坂を上ッた覚えが微《かすか》に残ッている。
 乃《すなわ》ち社内へ進入《すすみい》ッて、左手の方の杪枯《うらが》れた桜の樹の植込みの間へ這入ッて、両手を背後に合わせながら、顔を皺《しか》めて其処此処《そこここ》と徘徊《うろつ》き出した。蓋《けだ》し、尋ねようと云う石田の宿所は後門《うらもん》を抜ければツイ其処では有るが、何分にも胸に燃す修羅苦羅《しゅらくら》の火の手が盛《さかん》なので、暫らく散歩して余熱《ほとぼり》を冷ます積りで。
「シカシ考えて見ればお勢も恨みだ」
 ト文三が徘徊《うろつ》きながら愚痴を溢《こぼ》し出した。
「現在自分の……我《おれ》が、本田のような畜生に辱められるのを傍観していながら、悔しそうな顔もしなかッた……平気で人の顔を視ていた……」
「しかも立際に一所に成ッて高笑いをした」ト無慈悲な記臆が用捨なく言足《いいたし》をした。
「そうだ高笑いをした……シテ見れば弥々《いよいよ》心変りがしているかしらん……」
 ト思いながら文三が力無さそうに、とある桜の樹の下《もと》に据え付けてあッたペンキ塗りの腰掛へ腰を掛ける、と云うよりは寧《むし》ろ尻餅《しりもち》を搗《つ》いた。暫らくの間は腕を拱《く》んで、顋《あご》を襟《えり》に埋《うず》めて、身動きをもせずに静《しずま》り返ッて黙想していたが、忽《たちま》ちフッと首を振揚げて、
「ヒョットしたらお勢に愛想《あいそ》を尽かさして……そして自家《じぶん》の方に靡《な》びかそうと思ッて……それで故意《わざ》と我《おれ》を……お勢のいる処で我を……そういえばアノ言様《いいざま》、アノ……お勢を視た眼付き……コ、コ、コリャこのままには措けん……」
 ト云ッて文三は血相を変えて突起上《つったちあが》ッた。
 がどうしたもので有ろう。
 何かコウ非常な手段を用いて、非常な豪胆を示して、「文三は男児だ、虫も胆気もこの通り有る、今まで何と言われても笑ッて済ましていたのはな、全く恢量大度《かいりょうたいど》だからだぞ、無気力だからでは無いぞ」ト口で言わんでも行為《ぎょうい》で見付《みせつ》けて、昇の胆《たん》を褫《うば》ッて、叔母の睡《ねぶり》を覚まして、若し愛想を尽かしているならばお勢の信用をも買戻して、そして……そして……自分も実に胆気が有ると……確信して見たいが、どうしたもので有ろう。
 思うさま言ッて言ッて言いまくッて、そして断然絶交する……イヤイヤ昇も仲々|口強馬《くち
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