足らんが、お勢が、品格々々と口癖に云ッているお勢が、あんな猥褻《わいせつ》な席に連《つらな》ッている……しかも一所に成ッて巫山戯《ふざけ》ている……平生の持論は何処へ遣ッた、何の為《た》めに学問をした、|先自侮而後人侮[#レ]之《まずみずからあなどるしこうしてのちひとこれをあなどる》、その位の事は承知しているだろう、それでいてあんな真似を……実に淫哇《みだら》だ。叔父の留守に不取締《ふとりしまり》が有ッちゃ我《おれ》が済まん、明日《あした》厳しく叔母に……」
トまでは調子に連れて黙想したが、ここに至ッてフト今の我身を省みてグンニャリと萎《しお》れてしまい、暫らくしてから「まずともかくも」ト気を替えて、懐中して来た翻訳物を取出して読み初めた。
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The ever difficult task of defining the distinctive characters and aims of English political parties threatens to become more formidable with the increasing influence of what has hitherto been called the Radical party. For over fifty years the party……
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ドッと下坐舗でする高笑いの声に流読の腰を折られて、文三はフト口を鉗《つぐ》んで、
「チョッ失敬極まる。我《おれ》の帰ッたのを知ッていながら、何奴《どいつ》も此奴《こいつ》も本田一人の相手に成ッてチヤホヤしていて、飯を喰ッて来たかと云う者も無い……アまた笑ッた、アリャお勢だ……弥々《いよいよ》心変りがしたならしたと云うが宜《いい》、切れてやらんとは云わん。何の糞《くそ》、我《おれ》だッて男児だ、心変《こころがわり》のした者に……」
ハッと心附《こころづい》て、また一|越《おつ》調子高に、
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The ever difficult task of defining the distinctive characters and aims of English political……
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フト格子戸の開く音がして笑い声がピッタリ止ッた。文三は耳を聳《そばだ》てた。※[#「勹<夕」、第3水準1−14−76]《いそが》わしく縁側を通る人の足音がして、暫らくすると梯子段《はしごだん》の下で洋燈をどうとかこうとか云うお鍋の声がしたが、それから後は粛然《ひっそ》として音沙汰《おとさた》をしなくなった。何となく来客でもある容子《ようす》。
高笑いの声がする内は何をしている位は大抵想像が附たからまず宜かッたが、こう静《しずま》ッて見るとサア容子が解らない。文三|些《すこ》し不安心に成ッて来た。「客の相手に叔母は坐舗へ出ている。お鍋も用がなければ可《よ》し、有れば傍に附てはいない。シテ見ると……」文三は起ッたり居たり。
キット思付いた、イヤ憶出《おもいいだ》した事が有る。今初まッた事では無いが、先刻から酔醒めの気味で咽喉《のど》が渇く。水を飲めば渇《かわき》が歇《と》まるが、シカシ水は台所より外には無い。しこうして台所は二階には附いていない。故《ゆえ》に若し水を飲まんと欲せば、是非とも下坐舗へ降りざるを得ず。「折が悪いから何となく何だけれども、シカシ我慢しているも馬鹿気ている」ト種々《さまざま》に分疏《いいわけ》をして、文三は遂《つい》に二階を降りた。
台所へ来て見ると、小洋燈《こランプ》が点《とぼ》しては有るがお鍋は居ない。皿|小鉢《こばち》の洗い懸けたままで打捨てて有るところを見れば、急に用が出来て遣《つかい》にでも往たものか。「奥坐舗は」と聞耳を引立てれば、ヒソヒソと私語《ささや》く声が聞える。全身の注意を耳一ツに集めて見たが、どうも聞取れない。ソコで竊《ぬす》むが如くに水を飲んで、抜足をして台所を出ようとすると、忽ち奥坐舗の障子がサッと開いた。文三は振反《ふりかい》ッて見て覚えず立止ッた。お勢が開懸《あけか》けた障子に掴《つか》まッて、出るでも無く出ないでもなく、唯|此方《こっち》へ背を向けて立在《たたず》んだままで坐舗の裏《うち》を窺《のぞ》き込んでいる。
「チョイと茲処《ここ》へお出《い》で」
ト云うは慥《たしか》に昇の声。お勢はだらしもなく頭振《かぶ》りを振りながら、
「厭サ、あんな事をなさるから」
「モウ悪戯《いたずら》しないからお出でと云えば」
「厭」
「ヨーシ厭と云ッたネ」
「真個《ほんと》か、其処《そこ》へ往《い》きましょうか」
ト、チョイと首を傾《かし》げた。
「ア、お出で、サア……
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