ネいと云うとネ、助《す》けて遣《や》るッてガブガブそれこそ牛飲《ぎゅういん》したもんだから、究竟《しまい》にはグデングデンに酔てしまッて」
 ト聞いて文三は満面の笑を半《なかば》引込ませた。
「それからネ、私共を家へ送込んでから、仕様が無いんですものヲ、巫山戯《ふざけ》て巫山戯て。それに慈母《おっか》さんも悪いのよ、今夜だけは大眼に看て置くなんぞッて云うもんだから好気《いいき》になって尚お巫山戯て……オホホホ」
 ト思出し笑をして、
「真個《ほんと》に失敬な人だよ」
 文三は全く笑を引込ませてしまッて腹立しそうに、
「そりゃさぞ面白かッたでしょう」
 ト云ッて顔を皺《しか》めたが、お勢はさらに気が附かぬ様子。暫《しば》らく黙然として何か考えていたが、頓《やが》てまた思出し笑をして、
「真個に失敬な人だよ」
 つまらぬ心配をした事を全然《すっぱり》咄《はな》して、快よく一笑に付して、心の清いところを見せて、お勢に……お勢に……感信させて、そして自家《じぶん》も安心しようという文三の胸算用は、ここに至ッてガラリ外れた。昇が酒を強《し》いた、飲めぬと云ッたら助《す》けた、何でも無い事。送り込んでから巫山戯《ふざけ》た……道学先生に聞かせたら巫山戯させて置くのが悪いと云うかも知れぬが、シカシこれとても酒の上の事、一時の戯《たわむれ》ならそう立腹する訳にもいかなかッたろう。要するにお勢の噺《はなし》に於《おい》て深く咎《とが》むべき節も無い。がシカシ文三には気に喰わぬ、お勢の言様《いいよう》が気に喰わぬ。「昇如き犬畜生にも劣ッた奴の事を、そう嬉《うれ》しそうに『本田さん本田さん』ト噂《うわさ》をしなくても宜さそうなものだ」トおもえばまた不平に成ッて、また面白く無くなッて、またお勢の心意気が呑込《のみこ》めなく成ッた。文三は差俯向《さしうつむ》いたままで黙然《もくねん》として考えている。
「何をそんなに塞《ふさ》いでお出でなさるの」
「何も塞いじゃいません」
「そう、私はまたお留《とめ》さん([#ここから割り注]大方老母が文三の嫁に欲しいと云ッた娘の名で[#ここで割り注終わり])とかの事を懐出《おもいだ》して、それで塞いでお出でなさるのかと思ッたら、オホホホ」
 文三は愕然としてお勢の貌を暫らく凝視《みつ》めて、ホッと溜息を吐いた。
「オホホホ溜息をして。やっぱり当ッたんでしょう、ネそうでしょう、オホホホ。当ッたもんだから黙ッてしまッて」
「そんな気楽じゃ有りません。今日母の所から郵便が来たから読《よん》で見れば、私のこういう身に成ッたを心配して、この頃じゃ茶断して願掛けしているそうだシ……」
「茶断して、慈母さんが、オホホホ。慈母さんもまだ旧弊だ事ネー」
 文三はジロリとお勢を尻眼《しりめ》に懸けて、恨めしそうに、
「貴嬢《あなた》にゃ可笑《おか》しいか知らんが私《わたくし》にゃさっぱり可笑しく無い。薄命とは云いながら私の身が定《きま》らんばかりで、老耋《としよ》ッた母にまで心配掛けるかと思えば、随分……耐《たま》らない。それに慈母さんも……」
「また何とか云いましたか」
「イヤ何とも仰《おっ》しゃりはしないが、アレ以来始終|気不味《きまず》い顔ばかりしていて打解けては下さらんシ……それに……それに……」
「貴嬢《あなた》も」ト口頭《くちさき》まで出たが、どうも鉄面皮《あつかま》しく嫉妬《じんすけ》も言いかねて思い返してしまい、
「ともかくも一日も早く身を定《き》めなければ成らぬと思ッて、今も石田の所へ往ッて頼んでは来ましたが、シカシこれとても宛にはならんシ、実に……弱りました。唯私一人苦しむのなら何でもないが、私の身が定《きま》らぬ為めに『方々《ほうぼう》』が我他彼此《がたぴし》するので誠に困る」
 ト萎《しお》れ返ッた。
「そうですネー」
 ト今まで冴《さ》えに冴えていたお勢もトウトウ引込まれて、共に気をめいらしてしまい、暫らくの間黙然としてつまらぬものでいたが、やがて小さな欠伸《あくび》をして、
「アア寐《ね》むく成ッた、ドレもう往ッて寐ましょう。お休みなさいまし」
 ト会釈《えしゃく》をして起上《たちあが》ッてフト立止まり、
「アそうだッけ……文さん、貴君はアノー課長さんの令妹《おいもとご》を御存知」
「知りません」
「そう、今日ネ、団子坂でお眼に懸ッたの。年紀《とし》は十六七でネ、随分|別品《べっぴん》は……別品だッたけれども、束髪の癖にヘゲル程|白粉《おしろい》を施《つ》けて……薄化粧なら宜けれども、あんなに施けちゃア厭味ッたらしくッてネー……オヤ好気なもんだ、また噺込《はなしこ》んでいる積りだと見えるよ。お休みなさいまし」
 ト再び会釈してお勢は二階を降りてしまッた。
 縁側で唯今帰ッたばかりの母親に出逢ッた。
「お勢」

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