uエ」
「エじゃないよ、またお前二階へ上ッてたネ」
また始まッたと云ッたような面相《かおつき》をして、お勢は返答をもせずそのまま子舎《へや》へ這入《はい》ッてしまッた。
さて子舎へ這入ッてからお勢は手疾《てばや》く寐衣《ねまき》に着替えて床へ這入り、暫らくの間|臥《ね》ながら今日の新聞を覧《み》ていたが……フト新聞を取落した。寐入ッたのかと思えばそうでもなく、眼はパッチリ視開《みひら》いている、その癖静まり返ッていて身動きをもしない。やがて、
「何故《なぜ》アア不活溌《ふかっぱつ》だろう」
ト口へ出して考えて、フト両足《りょうそく》を蹈延《ふみの》ばして莞然《にっこり》笑い、狼狽《あわ》てて起揚《おきあが》ッて枕頭《まくらもと》の洋燈《ランプ》を吹消してしまい、枕に就いて二三度|臥反《ねかえ》りを打ッたかと思うと間も無くスヤスヤと寐入ッた。
第九回 すわらぬ肚《はら》
今日は十一月四日、打続いての快晴で空は余残《なごり》なく晴渡ッてはいるが、憂愁《うれい》ある身の心は曇る。文三は朝から一室《ひとま》に垂籠《たれこ》めて、独り屈托《くったく》の頭《こうべ》を疾《や》ましていた。実は昨日《きのう》朝飯《あさはん》の時、文三が叔母に対《むかっ》て、一昨日《おととい》教師を番町に訪うて身の振方を依頼して来た趣を縷々《るる》咄《はな》し出したが、叔母は木然《ぼくぜん》として情|寡《すくな》き者の如く、「ヘー」ト余所事《よそごと》に聞流していてさらに取合わなかッた、それが未《いま》だに気になって気になってならないので。
一時頃に勇《いさみ》が帰宅したとて遊びに参ッた。浮世の塩を踏まぬ身の気散じさ、腕押、坐相撲《すわりずもう》の噺《はなし》、体操、音楽の噂《うわさ》、取締との議論、賄方《まかないかた》征討の義挙から、試験の模様、落第の分疏《いいわけ》に至るまで、凡《およ》そ偶然に懐《むね》に浮んだ事は、月足らずの水子《みずこ》思想、まだ完成《まとまっ》ていなかろうがどうだろうがそんな事に頓着《とんじゃく》はない、訥弁《とつべん》ながらやたら無性に陳《なら》べ立てて返答などは更に聞ていぬ。文三も最初こそ相手にも成ていたれ、遂《つい》にはホッと精を尽かしてしまい、勇には随意に空気を鼓動さして置いて、自分は自分で余所事《よそごと》を、と云たところがお勢の上や身の成行で、熟思黙想しながら、折々|間外《まはず》れな溜息《ためいき》噛交《かみま》ぜの返答をしていると、フトお勢が階子段《はしごだん》を上《のぼ》ッて来て、中途から貌《かお》而已《のみ》を差出して、
「勇」
「だから僕《ぼか》ア議論して遣《や》ッたんだ。ダッテ君、失敬じゃないか。『ボート』の順番を『クラッス』(級)の順番で……」
「勇と云えば。お前の耳は木くらげかい」
「だから何だと云ッてるじゃ無いか」
「綻《ほころび》を縫てやるからシャツをお脱ぎとよ」
勇はシャツを脱ぎながら、
「『クラッス』の順番で定《き》めると云うんだもの、『ボート』の順番を『クラッス』の順番で定めちゃア、僕ア何だと思うな、僕ア失敬だと思うな。だって君、『ボート』は……」
「さッさとお脱ぎで無いかネー、人が待ているじゃ無いか」
「そんなに急がなくッたッて宜《いい》やアネ、失敬な」
「誰方《どっち》が失敬だ……アラあんな事言ッたら尚《な》お故意《わざ》と愚頭々々《ぐずぐず》しているよ。チョッ、ジレッタイネー、早々《さっさ》としないと姉さん知らないから宜《い》い」
「そんな事云うなら Bridle《ブライドル》 path《パッス》 と云う字を知てるか、I《アイ》 was《ウォズ》 at《エット》 our《アワー》 uncle's《アンクルス》 ト云う事知てるか、I《アイ》 will《ウィル》 keep《キープ》 your《ユアー》……」
「チョイとお黙り……」
ト口早に制して、お勢が耳を聳《そばだ》てて何か聞済まして、忽《たちま》ち満面に笑《わらい》を含んでさも嬉《うれ》しそうに、
「必《きっ》と本田さんだよ」
ト言いながら狼狽《あわ》てて梯子段《はしごだん》を駈下《かけお》りてしまッた。
「オイオイ姉さん、シャツを持ッてッとくれッてば……オイ……ヤ失敬な、モウ往《いっ》ちまッた。渠奴《あいつ》近頃生意気になっていかん。先刻《さっき》も僕ア喧嘩《けんか》して遣たんだ。婦人《おんな》の癖に園田勢子と云う名刺《なふだ》を拵《こし》らえるッてッたから、お勢ッ子で沢山だッてッたら、非常に憤《おこ》ッたッけ」
「アハハハハ」
ト今まで黙想していた文三が突然無茶苦茶に高笑を做出《しだ》したが、勿論《もちろん》秋毫《すこし》も可笑《おか》しそうでは無かッた。シカシ少年の議論家は称讃《しょうさん》されたのかと
前へ
次へ
全74ページ中39ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
二葉亭 四迷 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング