}《すべ》て閭巷猥瑣《りょこうわいさ》の事には能《よ》く通暁《つうぎょう》していて、骨牌《かるた》を弄《もてあそ》ぶ事も出来、紅茶の好悪《よしあし》を飲別ける事も出来、指頭で紙巻烟草《シガレット》を製する事も出来、片手で鼻汁《はな》を拭《ふ》く事も出来るが、その代り日本の事情は皆無解らない。
 日本の事情は皆無解らないが当人は一向苦にしない。啻《ただ》苦にしないのみならず、凡そ一切の事一切の物を「日本の」トさえ冠詞が附けば則《すなわ》ち鼻息でフムと吹飛ばしてしまって、そして平気で済ましている。
 まだ中年の癖に、この男はあだかも老人の如くに過去の追想|而已《のみ》で生活している。人に逢《あ》えば必ず先《ま》ず留学していた頃の手柄噺《てがらばなし》を咄《はな》し出す。尤《もっと》もこれを封じてはさらに談話《はなし》の出来ない男で。
 知己の者はこの男の事を種々《さまざま》に評判する。或《あるい》は「懶惰《らんだ》だ」ト云い、或は「鉄面皮《てつめんぴ》だ」ト云い、或は「自惚《うぬぼれ》だ」ト云い、或は「法螺吹《ほらふ》きだ」と云う。この最後の説だけには新知故交|統括《ひっくる》めて総起立、薬種屋の丁稚《でっち》が熱に浮かされたように「そうだ」トいう。
「シカシ、毒が無くッて宜《いい》」と誰だか評した者が有ッたが、これは極めて確評で、恐らくは毒が無いから懶惰で鉄面皮で自惚で法螺を吹くので、ト云ッたら或は「イヤ懶惰で鉄面皮で自惚で法螺を吹くから、それで毒が無いように見えるのだ」ト云う説も出ようが、ともかくも文三はそう信じているので。
 尋ねて見ると幸い在宿、乃《すなわ》ち面会して委細を咄して依頼すると、「よろしい承知した」ト手軽な挨拶《あいさつ》。文三は肚《はら》の裏《うち》で、「毒がないから安請合をするが、その代り身を入れて周旋はしてくれまい」と思ッて私《ひそか》に嘆息した。
「これが英国だと君一人位どうでもなるんだが、日本だからいかん。我輩こう見えても英国にいた頃は随分知己が有ったものだ。まず『タイムス』新聞の社員で某《それがし》サ、それから……」
 ト記憶に存した知己の名を一々言い立てての噺、屡々《しばしば》聞いて耳にタコが入《い》ッている程では有るが、イエそのお噺ならもう承りましたとも言兼ねて、文三も始めて聞くような面相《かおつき》をして耳を借している。そのジレッタサもどかしさ、モジモジしながらトウトウ二時間ばかりというもの無間断《のべつ》に受けさせられた。その受賃という訳でも有るまいが帰り際《ぎわ》になって、
「新聞の翻訳物が有るから周旋しよう。明後日《あさって》午後に来給《きたま》え、取寄せて置こう」
 トいうから文三は喜びを述べた。
「フン新聞か……日本の新聞は英国の新聞から見りゃ全《まる》で小児《こども》の新聞だ、見られたものじゃない……」
 文三は狼狽《あわ》てて告別《わかれ》の挨拶を做直《しな》おして※[#「勹<夕」、第3水準1−14−76]々《そこそこ》に戸外《おもて》へ立出で、ホッと一息|溜息《ためいき》を吐《つ》いた。
 早くお勢に逢いたい、早くつまらぬ心配をした事を咄してしまいたい、早く心の清い所を見せてやりたい、ト一心に思詰めながら文三がいそいそ帰宅して見るとお勢はいない。お鍋に聞けば、一旦《いったん》帰ってまた入湯に往ったという。文三|些《すこ》し拍子抜《ひょうしぬ》けがした。
 居間へ戻ッて燈火を点じ、臥《ね》て見たり起きて見たり、立て見たり坐ッて見たりして、今か今かと文三が一刻千秋の思いをして頸《くび》を延ばして待構えていると、頓《やが》て格子戸《こうしど》の開く音がして、縁側に優しい声がして、梯子段《はしごだん》を上る跫音《あしおと》がして、お勢が目前に現われた。と見れば常さえ艶《つや》やかな緑の黒髪は、水気《すいき》を含んで天鵞絨《びろうど》をも欺むくばかり、玉と透徹る肌《はだえ》は塩引の色を帯びて、眼元にはホンノリと紅《こう》を潮《ちょう》した塩梅《あんばい》、何処やらが悪戯《いたずら》らしく見えるが、ニッコリとした口元の塩らしいところを見ては是非を論ずる遑《いとま》がない。文三は何もかも忘れてしまッて、だらしも無くニタニタと笑いながら、
「お皈《かえん》なさい。どうでした団子坂は」
「非常に雑沓《ざっとう》しましたよ、お天気が宜《いい》のに日曜だッたもんだから」
 ト言いながら膝《ひざ》から先へベッタリ坐ッて、お勢は両手で嬌面《かお》を掩《おお》い、
「アアせつない、厭《いや》だと云うのに本田さんが無理にお酒を飲まして」
「母親《おっか》さんは」
 ト文三が尋ねた、お勢が何を言ッたのだかトント解らないようで。
「お湯から買物に回ッて……そしてネ自家《じぶん》もモウ好加減に酔てる癖に、私が飲め
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