ヘ《あわ》ててブルブルと首を振ッて見たが、それでも未《ま》だ散りそうにもしない。この「ガ」奴《め》が、藕糸孔中《ぐうしこうちゅう》蚊睫《ぶんしょう》の間にも這入《はい》りそうなこの眇然《びょうぜん》たる一小「ガ」奴《め》が、眼の中《うち》の星よりも邪魔になり、地平線上に現われた砲車一片の雲よりも畏《おそ》ろしい。
然り畏ろしい。この「ガ」の先にはどんな不了簡《ふりょうけん》が竊《ひそ》まッているかも知れぬと思えば、文三畏ろしい。物にならぬ内に一刻も早く散らしてしまいたい。シカシ散らしてしまいたいと思うほど尚お散り難《かね》る。しかも時刻の移るに随《したが》ッて枝雲は出来る、砲車雲《もとぐも》は拡《ひろ》がる、今にも一大|颶風《ぐふう》が吹起りそうに見える。気が気で無い……
国|許《もと》より郵便が参ッた。散らし薬には崛竟《くっきょう》の物が参ッた。飢えた蒼鷹《くまだか》が小鳥を抓《つか》むのはこんな塩梅《あんばい》で有ろうかと思う程に文三が手紙を引掴《ひっつか》んで、封目《ふうじめ》を押切ッて、故意《わざ》と声高《こわだか》に読み出したが、中頃に至ッて……フト黙して考えて……また読出して……また黙して……また考えて……遂《つい》に天を仰いで轟然《ごうぜん》と一大笑を発した。何を云うかと思えば、
「お勢を疑うなんぞと云ッて我《おれ》も余程《よっぽど》どうかしている、アハハハハ。帰ッて来たら全然《すっかり》咄《はな》して笑ッてしまおう、お勢を疑うなんぞと云ッて、アハハハハ」
この最後の大笑で砲車雲《ほうしゃうん》は全く打払ッたが、その代り手紙は何を読んだのだか皆無《かいむ》判《わか》らない。
ハッと気を取直おして文三が真面目《まじめ》に成ッて落着いて、さて再び母の手紙を読んで見ると、免職を知らせた手紙のその返辞で、老耋《としよって》の悪い耳、愚痴を溢《こぼ》したり薄命を歎《なげ》いたりしそうなものの、文《ふみ》の面《おもて》を見ればそんなけびらいは露程もなく、何もかも因縁《いんねん》ずくと断念《あきら》めた思切りのよい文言《もんごん》。シカシさすがに心細いと見えて、返えす書《がき》に、跡で憶出して書加えたように薄墨で、
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こう申せばそなたはお笑い被成候《なされそうろう》かは存じ不申《もうさず》候えども、手紙の着きし当日より一日も早く旧《もと》のようにお成り被成《なされ》候ように○○《どこそこ》のお祖師さまへ茶断《ちゃだち》して願掛け致しおり候まま、そなたもその積りにて油断なく御奉公口をお尋ね被成度《なされたく》念じ※[#「参らせ候」のくずし字、103−14]《まいらせそろ》。
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文三は手紙を下に措《お》いて、黙然《もくぜん》として腕を拱《く》んだ。
叔母ですら愛想《あいそ》を尽かすに、親なればこそ子なればこそ、ふがいないと云ッて愚痴をも溢さず茶断までして子を励ます、その親心を汲分《くみわ》けては難有泪《ありがたなみだ》に暮れそうなもの、トサ文三自分にも思ッたが、どうしたものか感涙も流れず、唯|何《なに》となくお勢の帰りが待遠しい。
「畜生、慈母《おっか》さんがこれ程までに思ッて下さるのに、お勢なんぞの事を……不孝極まる」
ト熱気《やっき》として自ら叱責《しか》ッて、お勢の貌《かお》を視るまでは外出《そとで》などを做《し》たく無いが、故意《わざ》と意地悪く、
「これから往って頼んで来よう」
ト口に言って、「お勢の帰って来ない内に」ト内心で言足しをして、憤々《ぷんぷん》しながら晩餐《ばんさん》を喫して宿所を立出《たちい》で、疾足《あしばや》に番町《ばんちょう》へ参って知己を尋ねた。
知己と云うは石田|某《なにがし》と云って某学校の英語の教師で、文三とは師弟の間繋《あいだがら》、曾《かつ》て某省へ奉職したのも実はこの男の周旋で。
この男は曾て英国に留学した事が有るとかで英語は一通り出来る。当人の噺《はなし》に拠《よ》れば彼地《あちら》では経済学を修めて随分上出来の方で有ったと云う事で、帰朝後も経済学で立派に押廻わされるところでは有るが、少々|仔細《しさい》有ッて当分の内(七八年来の当分の内で)、唯の英語の教師をしていると云う事で。
英国の学者社会に多人数《たにんず》知己が有る中に、かの有名の「ハルベルト・スペンセル」とも曾て半面の識が有るが、シカシもう七八年も以前の事ゆえ、今面会したら恐らくは互に面忘《おもわす》れをしているだろうと云う、これも当人の噺《はなし》で。
ともかくもさすがは留学しただけ有りて、英国の事情、即《すなわ》ち上下《じょうか》議院の宏壮《こうそう》、竜動府《ロンドンふ》市街の繁昌、車馬の華美、料理の献立、衣服|杖履《じょうり》、日用諸雑品の名称等、
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