ンながら来る。
「大分《だいぶ》談判が難《むずかし》かッたと見えますネ」
「大きにお待ち遠うさま」
ト云ッてお勢の顔を視て、
「お前、どうしたんだえ、顔を真赤にして」
ト咎《とが》められてお勢は尚お顔を赤くして、
「オヤそう、歩いたら暖《あった》かに成ッたもんだから……」
「マア本田さん聞ておくんなさい、真個《ほんと》にあの児の銭遣《ぜにづか》いの荒いのにも困りますよ。此間《こないだ》ネ試験の始まる前に来て、一円前借して持ッてッたんですよ。それを十日も経たない内にもう使用《つか》ッちまって、またくれろサ。宿所《うち》ならこだわりを附けてやるんだけれども……」
「あんな事を云ッて虚言《うそ》ですよ、慈母《おっか》さんが小遣いを遣りたがるのよ、オホホホ」
ト無理に押出したような高笑をした。
「黙ッてお出で、お前の知ッた事《こっ》ちゃない……こだわりを附けて遣るんだけれども、途中だからと思ッてネ黙ッて五十銭出して遣ッたら、それんばかじゃ足らないから一円くれろと云うんですよ。そうそうは方図が無いと思ッてどうしても遣らなかッたらネ、不承々々に五十銭取ッてしまッてネ、それからまた今度は、明後日《あさって》お友達同志寄ッて飛鳥山《あすかやま》で饂飩会《うどんかい》とかを……」
「オホホホ」
この度《たび》は真に可笑しそうにお勢が笑い出した。昇は荐《しき》りに点頭《うなず》いて、
「運動会」
「そのうんどうかいとか蕎麦《そば》買いとかをするからもう五十銭くれろッてネ、明日《あした》取りにお出でと云ッても何と云ッても聞かずに持ッて往きましたがネ。それも宜いが、憎い事を云うじゃ有りませんか。私《あたし》が『明日お出でか』ト聞いたらネ、『これさえ貰えばもう用は無い、また無くなってから行く』ッて……」
「慈母さん、書生の運動会なら会費と云ッても高が十銭か二十銭位なもんですよ」
「エ、十銭か二十銭……オヤそれじゃ三十銭足駄を履かれたんだよ……」
ト云ッて昇の顔を凝視《みつ》めた。とぼけた顔であッたと見えて、昇もお勢も同時に
「オホホホ」
「アハハハ」
第八回 団子坂の観菊 下
お勢|母子《ぼし》の者の出向いた後《のち》、文三は漸《ようや》く些《すこ》し沈着《おちつい》て、徒然《つくねん》と机の辺《ほとり》に蹲踞《うずくま》ッたまま腕を拱《く》み顋《あご》を襟《えり》に埋めて懊悩《おうのう》たる物思いに沈んだ。
どうも気に懸る、お勢の事が気に懸る。こんな区々たる事は苦に病むだけが損だ損だと思いながら、ツイどうも気に懸ってならぬ。
凡《およ》そ相愛《あいあい》する二ツの心は、一体分身で孤立する者でもなく、又仕ようとて出来るものでもない。故《ゆえ》に一方《かたかた》の心が歓ぶ時には他方《かたかた》の心も共に歓び、一方《かたかた》の心が悲しむ時には他方《かたかた》の心も共に悲しみ、一方《かたかた》の心が楽しむ時には他方《かたかた》の心も共に楽み、一方《かたかた》の心が苦しむ時には他方《かたかた》の心も共に苦しみ、嬉笑《きしょう》にも相感じ怒罵《どば》にも相感じ、愉快適悦、不平|煩悶《はんもん》にも相感じ、気が気に通じ心が心を喚起《よびおこ》し決して齟齬《そご》し扞格《かんかく》する者で無い、と今日が日まで文三は思っていたに、今文三の痛痒《つうよう》をお勢の感ぜぬはどうしたものだろう。
どうも気が知れぬ、文三には平気で澄ましているお勢の心意気が呑込《のみこ》めぬ。
若《も》し相愛《あいあい》していなければ、文三に親しんでから、お勢が言葉遣いを改め起居動作《たちいふるまい》を変え、蓮葉《はすは》を罷《や》めて優に艶《やさ》しく女性《にょしょう》らしく成る筈《はず》もなし、又今年の夏|一夕《いっせき》の情話に、我から隔《へだて》の関を取除《とりの》け、乙な眼遣《めづかい》をし麁匆《ぞんざい》な言葉を遣って、折節に物思いをする理由《いわれ》もない。
若し相愛《あいあい》していなければ、婚姻《こんいん》の相談が有った時、お勢が戯談《じょうだん》に托辞《かこつ》けてそれとなく文三の肚《はら》を探る筈もなし、また叔母と悶着《もんちゃく》をした時、他人|同前《どうぜん》の文三を庇護《かば》って真実の母親と抗論する理由《いわれ》もない。
「イヤ妄想《ぼうそう》じゃ無い、おれを思っているに違いない……ガ……そのまた思ッているお勢が、そのまた死なば同穴と心に誓った形の影が、そのまた共に感じ共に思慮し共に呼吸生息する身の片割が、従兄弟《いとこ》なり親友なり未来の……夫ともなる文三の鬱々《うつうつ》として楽まぬのを余所《よそ》に見て、行《ゆ》かぬと云ッても勧めもせず、平気で澄まして不知顔《しらぬかお》でいる而已《のみ》か、文三と意気《そり》が合わねば
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