ハ嬪ですネ」
「そして家で視たよりか美しくッてネ。それだもんだから……ネ……貴君《あなた》もネ……」
 ト眼元と口元に一杯笑いを溜《た》めてジッと昇の貌を凝視《みつ》めて、さてオホホホと吹溢《ふきこ》ぼした。
「アッ失策《しま》ッた、不意を討たれた。ヤどうもおそろ感心、手は二本きりかと思ッたらこれだもの、油断も隙《すき》もなりゃしない」
「それにあの嬢《かた》も、オホホホ何だと見えて、お辞儀する度《たんび》に顔を真赤にして、オホホホホホ」
「トたたみかけて意地目《いじめ》つけるネ、よろしい、覚えてお出でなさい」
「だッて実際の事ですもの」
「シカシあの娘が幾程《いくら》美しいと云ッたッても、何処かの人にゃア……とても……」
「アラ、よう御座んすよ」
「だッて実際の事ですもの」
「オホホホ直ぐ復讐《ふくしゅう》して」
「真《しん》に戯談《じょうだん》は除《の》けて……」
 ト言懸ける折しも、官員風の男が十《とお》ばかりになる女の子の手を引いて来蒐《きかか》ッて、両人《ふたり》の容子を不思議そうにジロジロ視ながら行過ぎてしまッた。昇は再び言葉を続《つ》いで、
「戯談は除けて、幾程美しいと云ッたッてあんな娘にゃア、先方《さき》もそうだろうけれども此方《こッち》も気が無い」
「気が無いから横目なんぞ遣いはなさらなかッたのネー」
「マアサお聞きなさい。あの娘ばかりには限らない、どんな美しいのを視たッても気移りはしない。我輩には『アイドル』(本尊)が一人有るから」
「オヤそう、それはお芽出度う」
「ところが一向お芽出度く無い事サ、所謂《いわゆる》鮑《あわび》の片思いでネ。此方《こっち》はその『アイドル』の顔が視たいばかりで、気まりの悪いのも堪《こら》えて毎日々々その家へ遊びに往けば、先方《さき》じゃ五月蠅《うるさい》と云ッたような顔をして口も碌々《ろくろく》きかない」
 トあじな眼付をしてお勢の貌をジッと凝視《みつ》めた。その意を暁《さと》ッたか暁らないか、お勢は唯ニッコリして、
「厭な『アイドル』ですネ、オホホホ」
「シカシ考えて見れば此方《こっち》が無理サ、先方《さき》には隠然亭主と云ッたような者が有るのだから。それに……」
「モウ何時でしょう」
「それに想《おもい》を懸けるは宜く無い宜く無いと思いながら、因果とまた思い断《き》る事が出来ない。この頃じゃ夢にまで見る」
「オヤ厭だ……モウ些《ちっ》と彼地《あっち》の方へ行て見ようじゃ有りませんか」
「漸《ようや》くの思いで一所に物観遊山に出るとまでは漕付《こぎつけ》は漕付たけれども、それもほんの一所に歩く而已《のみ》で、慈母《おっか》さんと云うものが始終|傍《そば》に附ていて見れば思う様に談話《はなし》もならず」
「慈母さんと云えば何を做《し》ているんだろうネー」
 ト背後《うしろ》を振返ッて観た。
「偶《たまたま》好機会が有ッて言出せば、その通りとぼけておしまいなさるし、考えて見ればつまらんナ」
 ト愚痴ッぽくいッた。
「厭ですよ、そんな戯談を仰しゃッちゃ」
 ト云ッてお勢が莞爾々々《にこにこ》と笑いながら此方《こちら》を振向いて視て、些《すこ》し真面目《まじめ》な顔をした。昇は萎《しお》れ返ッている。
「戯談と聞かれちゃ填《う》まらない、こう言出すまでにはどの位苦しんだと思いなさる」
 ト昇は歎息した。お勢は眼睛《め》を地上に注いで、黙然《もくねん》として一語をも吐かなかッた。
「こう言出したと云ッて、何にも貴嬢《あなた》に義理を欠かして私《わたくし》の望《のぞみ》を遂げようと云うのじゃア無いが、唯貴嬢の口から僅《たッた》一言、『断念《あきら》めろ』と云ッて戴《いただ》きたい。そうすりゃア私もそれを力に断然思い切ッて、今日ぎりでもう貴嬢にもお眼に懸るまい……ネーお勢さん」
 お勢は尚お黙然としていて返答をしない。
「お勢さん」
 ト云いながら昇が項垂《うなだ》れていた首を振揚げてジッとお勢の顔を窺《のぞ》き込めば、お勢は周章狼狽《どぎまぎ》してサッと顔を※[#「赤+報のつくり」、96−9]《あか》らめ、漸く聞えるか聞えぬ程の小声で、
「虚言《うそ》ばッかり」
 ト云ッて全く差俯向《さしうつむ》いてしまッた。
「アハハハハハ」
 ト突如《だしぬけ》に昇が轟然《ごうぜん》と一大笑を発したので、お勢は吃驚《びっくり》して顔を振揚げて視て、
「オヤ厭だ……アラ厭だ……憎らしい本田さんだネー、真面目くさッて人を威《おど》かして……」
 ト云ッて悔しそうにでもなく恨めしそうにでもなく、謂《い》わば気まりが悪るそうに莞爾《にっこり》笑ッた。
「お巫山戯《ふざけ》でない」
 ト云う声が忽然《こつぜん》背後《うしろ》に聞えたのでお勢が喫驚《びっくり》して振返ッて視ると、母親が帯の間へ紙入を挿《はさ》
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