b今までが三十円だッたから五円殖えて……」
「何ですネー母親《おっか》さん、他人の収入を……」
「マアサ五円殖えて三十五円、結構ですワ、結構でなくッてサ。貴君《あなた》どうして今時高利貸したッて月三十五円取ろうと言うなア容易な事《こっ》ちゃア有りませんヨ……三十五円……どうしても働らき者《もん》は違ッたもんだネー。だからこの娘《こ》とも常不断《じょうふだん》そう言ッてます事サ、アノー本田さんは何だと、内の文三や何《なん》かとは違ッてまだ若くッてお出《い》でなさるけれども、利口で気働らきが有ッて、如才が無くッて……」
「談話《はなし》も艶消《つやけ》しにして貰《もらい》たいネ」
「艶じゃア無い、真個《ほんと》にサ。如才が無くッてお世辞がよくッて男振も好けれども、唯|物喰《ものぐ》いの悪《わり》いのが可惜《あったら》瑜《たま》に疵《きず》だッて、オホホホホ」
「アハハハハ、貧乏人の質《しち》で上げ下げが怖ろしい」
「それはそうと、孰《いず》れ御結構振舞いが有りましょうネ。新富《しんとみ》かネ、但《ただ》しは市村《いちむら》かネ」
「何処《いずれ》へなりとも、但し負《おん》ぶで」
「オヤそれは難有《ありがた》くも何ともないこと」
トまた口を揃《そろ》えて高笑い。
「それは戯談《じょうだん》だがネ、芝居はマア芝居として、どうです、明後日《あさって》団子坂《だんござか》へ菊見という奴は」
「菊見、さようさネ、菊見にも依りけりサ。犬川《いぬかわ》じゃア、マア願い下げだネ」
「其処にはまた異《おつ》な寸法も有ろうサ」
「笹《ささ》の雪じゃアないかネ」
「まさか」
「真個《ほんと》に往きましょうか」
「お出でなさいお出でなさい」
「お勢、お前もお出ででないか」
「菊見に」
「アア」
お勢は生得の出遊《である》き好き、下地は好きなり御意《ぎょい》はよし、菊見の催《もよおし》頗《すこぶ》る妙だが、オイソレというも不見識と思ッたか、手弱く辞退して直ちに同意してしまう。十分ばかりを経て昇が立帰ッた跡で、お政は独言《ひとりごと》のように、
「真個《ほんと》に本田さんは感心なもんだナ、未《ま》だ年齢《とし》も若いのに三十五円月給取るように成んなすった。それから思うと内の文三なんざア盆暗《ぼんくら》の意久地なしだッちゃアない、二十三にも成ッて親を養《すご》すどこか自分の居所《いど》立所《たちど》にさえ迷惑《まごつい》てるんだ。なんぼ何だッて愛想《あいそ》が尽きらア」
「だけれども本田さんは学問は出来ないようだワ」
「フム学問々々とお言いだけれども、立身出世すればこそ学問だ。居所《いど》立所《たちど》に迷惑《まごつ》くようじゃア、些《ちっ》とばかし書物《ほん》が読めたッてねっから難有味《ありがたみ》がない」
「それは不運だから仕様がないワ」
トいう娘の顔をお政は熟々《しけじけ》目守《みつ》めて、
「お勢、真個《ほんと》にお前は文三と何にも約束した覚えはないかえ。エ、有るなら有ると言ておしまい、隠立《かくしだて》をすると却《かえっ》てお前の為にならないヨ」
「またあんな事を言ッて……昨日《きのう》あれ程そんな覚えは無いと言ッたのが母親《おっか》さんには未だ解らないの、エ、まだ解らないの」
「チョッ、また始まッた。覚えが無いなら無いで好やアネ、何にもそんなに熱くならなくッたッて」
「だッて人をお疑《うたぐ》りだものヲ」
暫らく談話《はなし》が断絶《とぎ》れる、母親も娘も何か思案顔。
「母親《おっか》さん、明後日《あさって》は何を衣《き》て行こうネ」
「何なりとも」
「エート、下着は何時《いつ》ものアレにしてト、それから上着は何衣《どれ》にしようかしら、やッぱり何時もの黄八丈《きはちじょう》にして置こうかしら……」
「もう一ツのお召|縮緬《ちりめん》の方にお為《し》ヨ、彼方《あのほう》がお前にゃア似合うヨ」
「デモあれは品が悪いものヲ」
「品《しん》が悪《わり》いてッたッて」
「アアこんな時にア洋服が有ると好のだけれどもナ……」
「働き者《もん》を亭主《ていし》に持ッて、洋服なとなんなと拵《こせ》えて貰うのサ」
トいう母親の顔をお勢はジット目守《みつ》めて不審顔。
[#改丁]
第二編
第七回 団子坂《だんござか》の観菊《きくみ》 上
日曜日は近頃に無い天下晴れ、風も穏かで塵《ちり》も起《た》たず、暦を繰《くっ》て見れば、旧暦で菊月初旬《きくづきはじめ》という十一月二日の事ゆえ、物観遊山《ものみゆさん》には持《もっ》て来いと云う日和《ひより》。
園田|一家《いっけ》の者は朝から観菊行《きくみゆき》の支度《したく》とりどり。晴衣《はれぎ》の亘長《ゆきたけ》を気にしてのお勢のじれこみがお政の肝癪《かんしゃく》と成て、廻りの髪結の来よう
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