フ遅いのがお鍋の落度となり、究竟《はて》は万古の茶瓶《きゅうす》が生れも付かぬ欠口《いぐち》になるやら、架棚《たな》の擂鉢《すりばち》が独手《ひとりで》に駈出《かけだ》すやら、ヤッサモッサ捏返《こねかえ》している所へ生憎《あやにく》な来客、しかも名打《なうて》の長尻《ながっちり》で、アノ只今《ただいま》から団子坂へ参ろうと存じて、という言葉にまで力瘤《ちからこぶ》を入れて見ても、まや薬ほども利《き》かず、平気で済まして便々とお神輿《みこし》を据《す》えていられる。そのじれッたさ、もどかしさ。それでも宜《よ》くしたもので、案じるより産むが易く、客もその内に帰れば髪結も来る、ソコデ、ソレ支度も調い、十一時頃には家内も漸《ようや》く静まッて、折節には高笑がするようになッた。
 文三は拓落失路《たくらくしつろ》の人、仲々|以《もっ》て観菊などという空《そら》は無い。それに昇は花で言えば今を春辺《はるべ》と咲誇る桜の身、此方《こっち》は日蔭《ひかげ》の枯尾花、到頭《どうせ》楯突《たてつ》く事が出来ぬ位なら打たせられに行くでも無いと、境界《きょうがい》に随《つ》れて僻《ひが》みを起し、一昨日《おとつい》昇に誘引《さそわれ》た時既にキッパリ辞《ことわ》ッて行かぬと決心したからは、人が騒ごうが騒ぐまいが隣家《となり》の疝気《せんき》で関繋《かけかまい》のない噺《はなし》、ズット澄していられそうなもののさて居られぬ。嬉《うれ》しそうに人のそわつくを見るに付け聞くに付け、またしても昨日《きのう》の我が憶出《おもいいだ》されて、五月雨《さみだれ》頃の空と湿める、嘆息もする、面白くも無い。
 ヤ面白からぬ。文三には昨日お勢が「貴君《あなた》もお出《いで》なさるか」ト尋ねた時、行かぬと答えたら、「ヘーそうですか」ト平気で澄まして落着払ッていたのが面白からぬ。文三の心持では、成ろう事なら、行けと勧めて貰《もら》いたかッた。それでも尚《な》お強情を張ッて行かなければ、「貴君と御一所でなきゃア私も罷《よ》しましょう」とか何とか言て貰いたかッた……
「シカシこりゃア嫉妬《しっと》じゃアない……」
 と不図何か憶出《おもいだ》して我と我に分疏《いいわけ》を言て見たが、まだ何処《どこ》かくすぐられるようで……不安心で。
 行くも厭《いや》なり留《とど》まるも厭なりで、気がムシャクシャとして肝癪が起る。誰と云て取留めた相手は無いが腹が立つ。何か火急の要事が有るようでまた無いようで、無いようでまた有るようで、立てもいられず坐《すわっ》てもいられず、どうしてもこうしても落着かれない。
 落着かれぬままに文三がチト読書でもしたら紛れようかと、書函《ほんばこ》の書物を手当放題に取出して読みかけて見たが、いッかな争《いか》な紛れる事でない。小むずかしい面相《かおつき》をして書物と疾視競《にらめくら》したところはまず宜《よかっ》たが、開巻第一章の一行目を反覆読過して見ても、更にその意義を解《げ》し得ない。その癖|下坐舗《したざしき》でのお勢の笑声《わらいごえ》は意地悪くも善く聞えて、一回《ひとたび》聞けば則《すなわ》ち耳の洞《ほら》の主人《あるじ》と成ッて、暫《しば》らくは立去らぬ。舌鼓《したつづみ》を打ちながら文三が腹立しそうに書物を擲却《ほうりだ》して、腹立しそうに机に靠着《もたれかか》ッて、腹立しそうに頬杖《ほおづえ》を杖《つ》き、腹立しそうに何処ともなく凝視《みつ》めて……フトまた起直ッて、蘇生《よみがえ》ッたような顔色《かおつき》をして、
「モシ罷めになッたら……」
 ト取外《とりはず》して言いかけて倏忽《たちまち》ハッと心附き、周章《あわて》て口を鉗《つぐ》んで、吃驚《びっくり》して、狼狽《ろうばい》して、遂《つい》に憤然《やっき》となッて、「畜生」と言いざま拳《こぶし》を振挙げて我と我を威《おど》して見たが、悪戯《いたずら》な虫|奴《め》は心の底でまだ……やはり……
 シカシ生憎《あいにく》故障も無かッたと見えて昇は一時頃に参ッた。今日は故意《わざ》と日本服で、茶の糸織の一ツ小袖《こそで》に黒七子《くろななこ》の羽織、帯も何か乙なもので、相変らず立《りゅう》とした服飾《こしらえ》。梯子段《はしごだん》を踏轟《ふみとどろ》かして上ッて来て、挨拶《あいさつ》をもせずに突如《いきなり》まず大胡坐《おおあぐら》。我鼻を視るのかと怪しまれる程の下眼を遣ッて文三の顔を視ながら、
「どうした、土左《どざ》的宜しくという顔色《がんしょく》だぜ」
「些《すこ》し頭痛がするから」
「そうか、尼御台《あまみだい》に油を取られたのでもなかッたか、アハハハハ」
 チョイと云う事からしてまず気《き》に障わる。文三も怫然《むっ》とはしたが、其処《そこ》は内気だけに何とも言わなかった。
「どうだ
前へ 次へ
全74ページ中28ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
二葉亭 四迷 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング