う思うと同時にお勢の事は全く忘れてしまった、そして尚お熟々《つくづく》とその木目に視入って、「心の取り方に依っては高低《たかびく》が有るようにも見えるな。ふふん、『おぷちかる、いるりゅうじょん』か」。ふと文三等に物理を教えた外国教師の立派な髯《ひげ》の生えた顔を憶い出すと、それと同時にまた木目の事は忘れてしまった。続いて眼前《めさき》に七八人の学生が現われて来たと視れば、皆同学の生徒等で、或は鉛筆を耳に挿《はさ》んでいる者も有れば、或は書物を抱えている者も有り又は開いて視ている者も有る。能く視れば、どうか文三もその中《うち》に雑《まじ》っているように思われる。今|越歴《エレキ》の講義が終ッて試験に掛る所で、皆「えれくとりある、ましん」の周囲《まわり》に集って、何事とも解らんが、何か頻《しき》りに云い争いながら騒いでいるかと思うと、忽《たちま》ちその「ましん」も生徒も烟《けぶり》の如く痕迹《あとかた》もなく消え失《う》せて、ふとまた木目が眼に入った。「ふん、『おぷちかる、いるりゅうじょん』か」と云って、何故《なにゆえ》ともなく莞爾《にっこり》した。「『いるりゅうじょん』と云えば、今まで読だ書物の中でさるれえ[#「さるれえ」に傍線]の「いるりゅうじょんす」ほど面白く思ったものは無いな。二日一晩に読切ってしまったっけ。あれほどの頭にはどうしたらなるだろう。余程組織が緻密《ちみつ》に違いない……」。さるれえ[#「さるれえ」に傍線]の脳髄とお勢とは何の関係も無さそうだが、この時突然お勢の事が、噴水の迸《ほとばし》る如くに、胸を突いて騰《あが》る。と、文三は腫物《はれもの》にでも触《さわ》られたように、あっと叫びながら、跳ね起きた。しかし、跳ね起きた時は、もうその事は忘れてしまッた、何のために跳ね起きたとも解らん。久く考えていて、「あ、お勢の事か」と辛《から》くして憶い出しは憶い出しても、宛然《さながら》世を隔てた事の如くで、面白くも可笑《おかしく》も無く、そのままに思い棄てた、暫《しばら》くは惘然《ぼうぜん》として気の抜けた顔をしていた。
こう心の乱れるまでに心配するが、しかし只心配するばかりで、事実には少しも益が無いから、自然は己《おの》が為《す》べき事をさっさっとして行ってお勢は益々深味へ陥る。その様子を視て、さすがの文三も今は殆ど志を挫《くじ》き、とても我力にも及ばん
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