懸けなく一ッ家に起臥《おきふし》して、折節は狎々《なれなれ》しく物など言いかけられて見れば、嬉しくもないが一|月《げつ》が復《ま》た来たようで、何にとなく賑《にぎや》かな心地がした。人一人殖えた事ゆえ、これはさもあるべき事ながら、唯怪しむ可《べ》きはお勢と席を同《おなじゅう》した時の文三の感情で、何時も可笑しく気が改まり、円めていた脊《せ》を引伸して頸を据え、異《おつ》う済して変に片付る。魂が裳抜《もぬけ》れば一心に主《しゅう》とする所なく、居廻りに在る程のもの悉《ことごと》く薄烟《うすけぶり》に包れて虚有縹緲《きょうひょうびょう》の中《うち》に漂い、有るかと思えばあり、無いかと想《おも》えばない中《なか》に、唯|一物《あるもの》ばかりは見ないでも見えるが、この感情は未《ま》だ何とも名《なづ》け難い。夏の初より頼まれてお勢に英語を教授するように成ッてから、文三も些《すこ》しく打解け出して、折節は日本婦人の有様、束髪の利害、さては男女交際の得失などを論ずるように成ると、不思議や今まで文三を男臭いとも思わず太平楽を並べ大風呂敷を拡《ひろ》げていたお勢が、文三の前では何時からともなく口数を聞かなく成ッて、何処ともなく落着て、優しく女性《にょしょう》らしく成ッたように見えた。或|一日《いちじつ》、お勢の何時になく眼鏡を外して頸巾《くびまき》を取ッているを怪んで文三が尋ぬれば、「それでも貴君《あなた》が、健康な者には却《かえっ》て害になると仰《おっしゃ》ッたものヲ」トいう。文三は覚えずも莞然《にっこり》、「それは至極|好《い》い事《こつ》だ」ト言ッてまた莞然。
お勢の落着たに引替え、文三は何かそわそわし出して、出勤して事務を執りながらもお勢の事を思い続けに思い、退省の時刻を待詫《まちわ》びる。帰宅したとてもお勢の顔を見ればよし、さも無ければ落脱《がっかり》力抜けがする。「彼女《あれ》に何したのじゃアないのかしらぬ」ト或時我を疑《うたぐ》ッて、覚えずも顔を※[#「赤+報のつくり」、22−13]《あか》らめた。
お勢の帰宅した初より、自分には気が付かぬでも文三の胸には虫が生《わい》た。なれどもその頃はまだ小さく場《ば》取らず、胸に在ッても邪魔に成らぬ而已《のみ》か、そのムズムズと蠢動《うごめ》く時は世界中が一所《ひとところ》に集る如く、又この世から極楽浄土へ往生する如く、又春
前へ
次へ
全147ページ中15ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
二葉亭 四迷 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング