フ煩悶を解脱《のが》れようと力《つと》め、良《やや》暫《しば》らくの間というものは身動もせず息気《いき》をも吐かず死人の如くに成っていたが、倏忽《たちまち》勃然《むっく》と跳起《はねお》きて、
「もしや本田に……」
 ト言い懸けて敢て言い詰めず、宛然《さながら》何か捜索《さがし》でもするように愕然《がくぜん》として四辺《あたり》を環視《みまわ》した。
 それにしてもこの疑念は何処《どこ》から生じたもので有ろう。天より降ッたか地より沸いたか、抑《そもそ》もまた文三の僻《ひが》みから出た蜃楼海市《しんろうかいし》か、忽然《こつぜん》として生じて思わずして来《きた》り、恍々惚々《こうこうこつこつ》としてその来所《らいしょ》を知るに由《よ》しなしといえど、何にもせよ、あれ程までに足掻《あが》きつ※[#「足へん+宛」、第3水準1−92−36]《もが》きつして穿鑿しても解らなかった所謂《いわゆる》冷淡中の一|物《ぶつ》を、今訳もなく造作もなくツイチョット突留めたらしい心持がして、文三覚えず身の毛が弥立《よだ》ッた。
 とは云うものの心持は未《いま》だ事実でない。事実から出た心持で無ければウカとは信を措《お》き難い。依て今までのお勢の挙動《そぶり》を憶出《おもいいだ》して熟思審察して見るに、さらにそんな気色《けしき》は見えない。成程お勢はまだ若い、血気も未《いま》だ定らない、志操も或《あるい》は根強く有るまい。が、栴檀《せんだん》は二葉《ふたば》から馨《こう》ばしく、蛇《じゃ》は一寸にして人を呑む気が有る。文三の眼より見る時はお勢は所謂|女豪《じょごう》の萌芽《めばえ》だ。見識も高尚《こうしょう》で気韻も高く、洒々落々《しゃしゃらくらく》として愛すべく尊《たっと》ぶべき少女であって見れば、仮令《よし》道徳を飾物にする偽君子《ぎくんし》、磊落《らいらく》を粧《よそお》う似而非《えせ》豪傑には、或は欺《あざむ》かれもしよう迷いもしようが、昇如きあんな卑屈な軽薄な犬畜生にも劣った奴に、怪我にも迷う筈はない。さればこそ常から文三には信切でも昇には冷淡で、文三をば推尊していても昇をば軽蔑《けいべつ》している。相愛は相敬の隣に棲《す》む、軽蔑しつつ迷うというは、我輩人間の能く了解し得る事でない。
「シテ見れば大丈夫かしら……ガ……」
 トまた引懸りが有る、まだ決徹《さっぱり》しない。文三|周
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