tり、
「ヤ大《おおき》にお待遠う」
「今の方は」
「アレガ課長です」
 ト云ってどうした理由《わけ》か莞爾々々《にこにこ》と笑い、
「今日来る筈《はず》じゃ無かッたんだが……」
「アノ丸髷に結《い》ッた方は、あれは夫人《おくさま》ですか」
「そうです」
「束髪の方は」
「アレですか、ありゃ……」
 ト言かけて後を振返って見て、
「妻君の妹です……内で見たよりか余程《よっぽど》別嬪《べっぴん》に見える」
「別嬪も別嬪だけれども、好いお服飾《こしらえ》ですことネー」
「ナニ今日はあんなお嬢様然とした風をしているけれども、家《うち》にいる時は疎末《そまつ》な衣服《なり》で、侍婢《こしもと》がわりに使われているのです」
「学問は出来ますか」
 ト突然お勢が尋ねたので、昇は愕然として、
「エ学問……出来るという噺《はなし》も聞かんが……それとも出来るかしらん。この間から課長の所に来ているのだから、我輩もまだ深くは情実《ようす》を知らないのです」
 ト聞くとお勢は忽ち眼元に冷笑の気を含ませて、振反って、今|将《まさ》に坂の半腹《ちゅうと》の植木屋へ這入ろうとする令嬢の後姿を目送《みおく》ッて、チョイと我帯を撫《な》でてそしてズーと澄ましてしまッた。
 坂下《さかじた》に待たせて置た車に乗ッて三人の者はこれより上野の方へと参ッた。
 車に乗ッてからお政がお勢に向い、
「お勢、お前も今のお娘《こ》さんのように、本化粧にして来りゃア宜かッたのにネー」
「厭《いや》サ、あんな本化粧は」
「オヤ何故《なぜ》え」
「だッて厭味ッたらしいもの」
「ナニお前十代の内なら秋毫《ちっと》も厭味なこたア有りゃしないわネ。アノ方が幾程《いくら》宜か知れない、引立《ひッたち》が好くッて」
「フフンそんなに宜きゃア慈母《おッか》さんお做《し》なさいな。人が厭だというものを好々《いいいい》ッて、可笑しな慈母さんだよ」
「好と思ッたから唯好じゃ無いかと云ッたばかしだアネ、それをそんな事いうッて真個《ほんと》にこの娘は可笑しな娘だよ」
 お勢はもはや弁難攻撃は不必要と認めたと見えて、何とも言わずに黙してしまッた。それからと云うものは、塞《ふさ》ぐのでもなく萎《しお》れるのでもなく、唯何となく沈んでしまッて、母親が再び談話《はなし》の墜緒《ついしょ》を紹《つご》うと試みても相手にもならず、どうも乙な塩梅《あんば
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