四日間
ガールシン
二葉亭四迷訳
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)弾丸《たま》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)片足|踏込《ふんごん》で
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(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#始め二重括弧、1−2−54]
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忘れもせぬ、其時味方は森の中を走るのであった。シュッシュッという弾丸《たま》の中を落来《おちく》る小枝をかなぐりかなぐり、山査子《さんざし》の株を縫うように進むのであったが、弾丸《たま》は段々烈しくなって、森の前方《むこう》に何やら赤いものが隠現《ちらちら》見える。第一中隊のシードロフという未だ生若《なまわか》い兵が此方《こッち》の戦線へ紛込《まぎれこん》でいるから※[#始め二重括弧、1−2−54]|如何《どう》してだろう?※[#終わり二重括弧、1−2−55]と忙《せわ》しい中で閃《ちら》と其様《そん》な事を疑って見たものだ。スルト其奴《そいつ》が矢庭にペタリ尻餠を搗《つ》いて、狼狽《うろたえ》た眼を円くして、ウッとおれの面《かお》を看た其口から血が滴々々《たらたらたら》……いや眼に見えるようだ。眼に見えるようなは其而已《そればかり》でなく、其時ふッと気が付くと、森の殆ど出端《ではずれ》の蓊鬱《こんもり》と生茂《はえしげ》った山査子《さんざし》の中に、居《お》るわい、敵が。大きな食肥《くらいふとッ》た奴であった。俺は痩の虚弱《ひよわ》ではあるけれど、やッと云って躍蒐《おどりかか》る、バチッという音がして、何か斯う大きなもの、トサ其時は思われたがな、それがビュッと飛で来る、耳がグヮンと鳴る。打たなと気が付た頃には、敵の奴めワッと云て山査子《さんざし》の叢立《むらだち》に寄懸《よりかか》って了った。匝《まわ》れば匝《まわ》られるものを、恐しさに度を失って、刺々《とげとげ》の枝の中へ片足|踏込《ふんごん》で躁《あせ》って藻掻《もが》いているところを、ヤッと一撃《ひとうち》に銃を叩落して、やたら突《づき》に銃劔をグサと突刺《つッさ》すと、獣《けもの》の吼《ほえ》るでもない唸《うな》るでもない変な声を出すのを聞捨にして駈出す。味方はワッワッと鬨《とき》を作って、倒《こ》ける、射《う》つ、という真最中。俺も森を畑《はた》へ駈出して慥《たし》か二三発も撃たかと思う頃、忽ちワッという鬨《とき》の声が一段高く聞えて、皆一斉に走出す、皆走出す中で、俺はソノ……旧《もと》の処に居る。ハテなと思た。それよりも更《もッ》と不思議なは、忽然として万籟《ばんらい》死して鯨波《ときのこえ》もしなければ、銃声も聞えず、音という音は皆消失せて、唯何やら前面《むこう》が蒼いと思たのは、大方空であったのだろう。頓《やが》て其蒼いのも朦朧《もやもや》となって了った……
どうも変さな、何でも伏臥《うつぶし》になって居るらしいのだがな、眼に遮《さえ》ぎるものと云っては、唯|掌大《しょうだい》の地面ばかり。小草《おぐさ》が数本《すほん》に、その一本を伝わって倒《さかしま》に這降《はいお》りる蟻に、去年の枯草《かれぐさ》のこれが筐《かたみ》とも見える芥《あくた》一摘《ひとつま》みほど――これが其時の眼中の小天地さ。それをば片一方の眼で視ているので、片一方のは何か堅い、木の枝に違いないがな、それに圧《お》されて、そのまた枝に頭が上《の》っていようと云うものだから、ひどく工合がわるい。身動《みうごき》を仕《し》たくも、不思議なるかな、些《ちッ》とも出来んわい。其儘で暫く経《た》つ。竈馬《こおろぎ》の啼《な》く音《ね》、蜂の唸声《うなりごえ》の外には何も聞えん。少焉《しばらく》あって、一しきり藻掻《もが》いて、体の下になった右手をやッと脱《はず》して、両の腕《かいな》で体を支えながら起上ろうとしてみたが、何がさて鑽《きり》で揉むような痛みが膝から胸、頭《かしら》へと貫くように衝上《つきあ》げて来て、俺はまた倒れた。また真の闇の跡先《あとさき》なしさ。
ふッと眼が覚めると、薄暗い空に星影が隠々《ちらちら》と見える。はてな、これは天幕《てんと》の内ではない、何で俺は此様《こん》な処へ出て来たのかと身動《みうごき》をしてみると、足の痛さは骨に応《こた》えるほど!
何《なに》さまこれは負傷したのに相違ないが、それにしても重傷《おもで》か擦創《かすり》かと、傷所《いたみしょ》へ手を遣《や》ってみれば、右も左もべッとりとした血《のり》。触《ふれ》れば益々痛むのだが、その痛さが齲歯《むしば》が痛むように間断《しッきり》なくキリキリと腹《はらわた》を※[#「てへん+劣」、第3水準1−84−77]《むし》られるようで、耳鳴がする、頭が重い。両脚に負傷したことはこれで朧気《おぼろげ》ながら分ったが、さて合点の行かぬは、何故《なぜ》此儘にして置いたろう? 豈然《よもや》とは思うが、もしヒョッと味方敗北というのではあるまいか? と、まず、遡《さかのぼ》って当時の事を憶出してみれば、初め朧《おぼろ》のが末《すえ》明亮《はっきり》となって、いや如何《どう》しても敗北でないと収まる。何故と云えば、俺は、ソレ倒れたのだ。尤もこれは瞭《はき》とせぬ。何でも皆が駈出すのに、俺一人それが出来ず、何か前方《むこう》が青く見えたのを憶えているだけではあるが、兎も角も小山の上の此《この》畑《はた》で倒れたのだ。これを指しては、背低《せびく》の大隊長殿が占領々々と叫《わめ》いた通り、此処を占領したのであってみれば、これは敗北したのではない。それなら何故俺の始末をしなかったろう? 此処は明放《あけばな》しの濶《かつ》とした処、見えぬことはない筈。それに此処でこうして転がっているのは俺ばかりでもあるまい。敵の射撃は彼《あ》の通り猛烈だったからな。好《よ》し一つ頭を捻向《ねじむ》けて四下《そこら》の光景《ようす》を視てやろう。それには丁度|先刻《さっき》しがた眼を覚して例の小草《おぐさ》を倒《さかしま》に這降《はいおり》る蟻を視た時、起揚《おきあが》ろうとして仰向《あおむけ》に倒《こ》けて、伏臥《うつぶし》にはならなかったから、勝手が好《い》い。それで此星も、成程な。
やっとこなと起かけてみたが、何分両脚の痛手《いたで》だから、なかなか起られぬ。到底《とて》も無益《むだ》だとグタリとなること二三度あって、さて辛《かろ》うじて半身起上ったが、や、その痛いこと、覚えず泪《なみだ》ぐんだくらい。
と視ると頭の上は薄暗い空の一角。大きな星一ツに小さいのが三《み》ツ四《よ》ツきらきらとして、周囲《まわり》には何か黒いものが矗々《すっく》と立っている。これは即ち山査子《さんざし》の灌木。俺は灌木の中に居るのだ。さてこそ置去り……
と思うと、慄然《ぞっ》として、頭髪《かみのけ》が弥竪《よだ》ったよ。しかし待てよ、畑《はた》で射《や》られたのにしては、この灌木の中に居るのが怪《おか》しい。してみればこれは傷の痛さに夢中で此処へ這込《はいこん》だに違いないが、それにしても其時は此処まで這込《はいこ》み得て、今は身動《みうごき》もならぬが不思議、或は射《や》られた時は一ヵ所の負傷であったが、此処へ這込《はいこん》でから復《ま》た一発|喰《く》ったのかな。
蒼味《あおみ》を帯びた薄明《うすあかり》が幾個《いくつ》ともなく汚点《しみ》のように地《じ》を這《は》って、大きな星は薄くなる、小さいのは全く消えて了う。ほ、月の出汐《でしお》だ。これが家《うち》であったら、さぞなア、好かろうになアと……
妙な声がする。宛《あだか》も人の唸《うな》るような……いや唸《うな》るのだ。誰か同じく脚《あし》に傷《て》を負って、若《もし》くは腹に弾丸《たま》を有《も》って、置去《おきざり》の憂目《うきめ》を見ている奴が其処らに居《お》るのではあるまいか。唸声《うなりごえ》は顕然《まざまざ》と近くにするが近処《あたり》に人が居そうにもない。はッ、これはしたり、何の事《こッ》た、おれおれ、この俺が唸《うな》るのだ。微かな情ない声が出おるわい。そんなに痛いのかしら。痛いには違いあるまいが、頭がただもう茫《ぼう》と無感覚《ばか》になっているから、それで分らぬのだろう。また横臥《ねころん》で夢になって了え。眠《ね》ること眠ること……が、もし万一《ひょっと》此儘になったら……えい、関《かま》うもんかい!
臥《ね》ようとすると、蒼白い月光が隈なく羅《うすもの》を敷たように仮の寝所《ふしど》を照して、五歩ばかり先に何やら黒い大きなものが見える。月の光を浴びて身辺|処々《ところどころ》燦《さん》たる照返《てりかえし》を見《み》するのは釦紐《ぼたん》か武具の光るのであろう。はてな、此奴《こいつ》死骸かな。それとも負傷者《ておい》かな?
何方《どっち》でも関《かま》わん。おれは臥《ね》る……
いやいや如何《どう》考えてみても其様《そん》な筈がない。味方は何処へ往ったのでもない。此処に居るに相違ない、敵を逐払《おいはら》って此処を守っているに相違ない。それにしては話声もせず篝《かがり》の爆《はぜ》る音も聞えぬのは何故であろう? いや、矢張《やッぱり》己《おれ》が弱っているから何も聞えぬので、其実味方は此処に居るに相違ない。
「助けてくれ助けてくれ!」
と破《や》れた人間離《にんげんばなれ》のした嗄声《しゃがれごえ》が咽喉《のど》を衝《つ》いて迸出《ほとばしりで》たが、応ずる者なし。大きな声が夜の空を劈《つんざ》いて四方へ響渡ったのみで、四下《あたり》はまた闃《ひッそ》となって了った。ただ相変らず蟋蟀《きりぎりす》が鳴しきって真円《まんまる》な月が悲しげに人を照すのみ。
若《も》し其処のが負傷者《ておい》なら、この叫声《わめきごえ》を聴いてよもや気の付かぬ事はあるまい。してみれば、これは死骸だ。味方のかしら、敵のかしら。ええ、馬鹿くさい! そんな事は如何《どう》でも好いではないか? と、また腫※[#「目+匡」、第3水準1−88−81]《はれまぶた》を夢に閉じられて了った。
先刻《さっき》から覚めてはいるけれど、尚お眼を瞑《ねむ》ったままで臥《ね》ているのは、閉じた※[#「目+匡」、第3水準1−88−81]越《まぶたごし》にも日光《ひのめ》が見透《みすか》されて、開《あ》けば必ず眼を射られるを厭《いと》うからであるが、しかし考えてみれば、斯う寂然《じっ》としていた方が勝《まし》であろう。昨日《きのう》……たしか昨日《きのう》と思うが、傷《て》を負ってから最《も》う一昼夜、こうして二昼夜三昼夜と経《た》つ内には死ぬ。何の業《わざ》くれ、死は一ツだ。寧《いっ》そ寂然《じっ》としていた方が好《い》い。身動《みうごき》がならぬなら、せんでも好《い》い。序《ついで》に頭の機能《はたらき》も止《と》めて欲しいが、こればかりは如何《どう》する事も出来ず、千々《ちぢ》に思乱れ種々《さまざま》に思佗《おもいわび》て頭に些《いささか》の隙も無いけれど、よしこれとても些《ちッ》との間《ま》の辛抱。頓《やが》て浮世の隙《ひま》が明いて、筐《かたみ》に遺る新聞の数行《すぎょう》に、我軍死傷少なく、負傷者何名、志願兵イワーノフ戦死。いや、名前も出まいて。ただ一名戦死とばかりか。兵一名! 嗟矣《ああ》彼《あ》の犬のようなものだな。
在りし昔が顕然《ありあり》と目前に浮ぶ。これはズッと昔の事、尤もな、昔の事と思われるのは是ばかりでない、おれが一生の事、足を撃れて此処に倒れる迄の事は何も彼《か》もズッと昔の事のように思われるのだが……或日町を通ると、人だかりがある。思わずも足を駐《とど》めて視ると、何か哀れな悲鳴を揚げている血塗《ちみどろ》の白い物を皆|佇立《たちどまっ》てまじりまじり視ている光景《ようす》。何かと思えば、それは可愛《かわい》らしい小犬で、鉄道馬車に敷かれて、今の俺の身で死にかかっているのだ。すると
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