、何処からか番人が出て来て、見物を押分け、犬の衿上《えりがみ》をむずと掴《つか》んで何処へか持って去《い》く、そこで見物もちりぢり。
 誰かおれを持って去《い》って呉れる者があろうか? いや、此儘で死ねという事であろう。が、しかし考えてみれば、人生は面白いもの、あの犬の不幸に遭《あ》った日は俺には即ち幸福な日で、歩くも何か酔心地、また然うあるべき理由《わけ》があった。ええ、憶えば辛い。憶うまい憶うまい。むかしの幸福。今の苦痛……苦痛は兎角免れ得ぬにしろ、懐旧の念には責められたくない。昔を憶出《おもいだ》せば自然と今の我身に引比べられて遣瀬無《やるせな》いのは創傷《きず》よりも余程《よッぽど》いかぬ!
 さて大分熱くなって来たぞ。日が照付けるぞ。と、眼を開《あ》けば、例の山査子《さんざし》に例の空、ただ白昼というだけの違い。おお、隣の人。ほい、敵の死骸だ! 何という大男! 待てよ、見覚があるぞ。矢張《やッぱり》彼《あ》の男だ……
 現在俺の手に掛けた男が眼の前に踏反《ふんぞ》ッているのだ。何の恨が有っておれは此男を手に掛けたろう?
 ただもう血塗《ちみどろ》になってシャチコばっているのであるが、此様《こん》な男を戦場へ引張り出すとは、運命の神も聞えぬ。一体何者だろう? 俺のように年寄《としと》った母親が有《あろ》うも知《しれ》ぬが、さぞ夕暮ごとにいぶせき埴生《はにゅう》の小舎《こや》の戸口に彳《たたず》み、遥《はるか》の空を眺《ながめ》ては、命の綱の※[#「てへん+爭」、第4水準2−13−24]人《かせぎにん》は戻らぬか、愛《いと》し我子の姿は見えぬかと、永く永く待わたる事であろう。
 さておれの身は如何《どう》なる事ぞ? おれも亦《また》まツこの通り……ああ此男が羨《うらや》ましい! 幸福者《あやかりもの》だよ、何も聞《きか》ずに、傷の痛みも感ぜずに、昔を偲ぶでもなければ、命惜しとも思うまい。銃劒が心臓の真中心《まッただなか》を貫いたのだからな。それそれ軍服のこの大きな孔《あな》、孔《あな》の周囲《まわり》のこの血。これは誰《たれ》の業《わざ》? 皆こういうおれの仕業《しわざ》だ。
 ああ此様《こん》な筈ではなかったものを。戦争に出《で》たは別段悪意があったではないものを。出《で》れば成程人殺もしようけれど、如何《どう》してかそれは忘れていた。ただ飛来《とびく》る弾丸《たま》に向い工合《ぐあい》、それのみを気にして、さて乗出《のりだ》して弥《いよいよ》弾丸《たま》の的となったのだ。
 それからの此始末。ええええ馬鹿め! 己《おれ》は馬鹿だったが、此不幸なる埃及《エジプト》の百姓(埃及軍《エジプトぐん》の服を着けておったが)、この百姓になると、これはまた一段と罪が無かろう。鮨《すし》でも漬《つ》けたように船に詰込れて君士但丁堡《コンスタンチノープル》へ送付られるまでは、露西亜《ロシヤ》の事もバルガリヤの事も唯噂にも聞いたことなく、唯行けと云われたから来たのだ。若《も》しも厭《いや》の何のと云おうものなら、笞《しもと》の[#「笞《しもと》の」は底本では「苔《しもと》の」]憂目《うきめ》を見るは愚かなこと、いずれかのパシャのピストルの弾を喰《く》おうも知れぬところだ。スタンブールから此ルシチウクまで長い辛い行軍をして来て、我軍の攻撃に遭《あ》って防戦したのであろうが、味方は名に負う猪武者《いのししむしゃ》、英吉利《イギリス》仕込《しこみ》のパテント付《づき》のピーボヂーにもマルチニーにも怯《びく》ともせず、前へ前へと進むから、始て怖気付《おじけづ》いて遁《に》げようとするところを、誰家《どこ》のか小男、平生《つね》なら持合せの黒い拳固《げんこ》一撃《ひとうち》でツイ埒《らち》が明きそうな小男が飛で来て、銃劒|翳《かざ》して胸板へグサと。
 何の罪も咎《とが》も無いではないか?
 おれも亦同じ事。殺しはしたけれど、何の罪がある? 何の報いで咽喉《のど》の焦付《こげつ》きそうなこの渇《かわ》き? 渇《かわ》く! 渇《かわ》くとは如何《どん》なものか、御存じですかい? ルーマニヤを通る時は、百何十度という恐ろしい熱天に毎日十里|宛《ずつ》行軍したッけが、其時でさえ斯うはなかった。ああ誰《たれ》ぞ来て呉れれば好《い》いがな。
 しめた! この男のこの大きな吸筒《すいづつ》、これには屹度《きっと》水がある! けれど、取りに行かなきゃならぬ。さぞ痛む事《こッ》たろうな。えい、如何《どう》するもんかい、やッつけろ!
 と、這出《はいだ》す。脚《あし》を引摺《ひきず》りながら力の脱けた手で動かぬ体を動かして行く。死骸はわずか一間と隔てぬ所に在るのだけれど、その一間が時に取っては十里よりも……遠いのではないが、難儀だ。けれども、如何仕様《どうしよう》も無い、這《は》って行く外はない。咽喉《のど》は熱して焦《こ》げるよう。寧《いっ》そ水を飲まぬ方が手短に片付くとは思いながら、それでも若《も》しやに覊《ひか》されて……
 這《は》って行く。脚《あし》が地に泥《なず》んで、一《ひ》と動《うごき》する毎《ごと》に痛さは耐《こらえ》きれないほど。うんうんという唸声《うめきごえ》、それが頓《やが》て泣声になるけれど、それにも屈《めげ》ずに這《は》って行く。やッと這付《はいつ》く。そら吸筒《すいづつ》――果して水が有る――而も沢山! 吸筒《すいづつ》半分も有ったろうよ。やれ嬉しや、是でまず当分は水に困らぬ――死ぬ迄は困らぬのだ。やれやれ!
 兎も角も、お蔭さまで助かりますと、片肘《かたひじ》に身を持たせて吸筒《すいづつ》の紐を解《とき》にかかったが、ふッと中心を失って今は恩人の死骸の胸へ伏倒《のめ》りかかった。如何にも死人《しびと》臭《くさ》い匂がもう芬《ぷん》と鼻に来る。
 飲んだわ飲んだわ! 水は生温《なまぬる》かったけれど、腐敗しては居なかったし、それに沢山に有る。まだ二三日は命が繋《つな》がれようというもの、それそれ生理《せいり》心得草《こころえぐさ》に、水さえあらば食物《しょくもつ》なくとも人は能《よ》く一週間以上|活《い》くべしとあった。又|餓死《うえじに》をした人の話が出ていたが、その人は水を飲でいたばかりに永く死切れなかったという。
 それが如何《どう》した? 此上五六日生延びてそれが何《なに》になる? 味方は居ず、敵は遁《に》げた、近くに往来はなしとすれば、これは如何《どう》でも死ぬに極《きま》っている。三日で済む苦しみを一週間に引延すだけの事なら、寧《いっ》そ早く片付けた方が勝《まし》ではあるまいか? 隣のの側《そば》に銃もある、而も英吉利製《イギリスせい》の尤物《わざもの》と見える。一寸《ちょッと》手を延すだけの世話で、直ぐ埒《らち》が明く。皆打切らなかったと見えて、弾丸《たま》も其処に沢山転がっている。
 さア、死ぬか――待ってみるか? 何を? 助かるのを? 死ぬのを? 敵が来て傷《て》を負ったおれの足の皮剥《かわはぎ》に懸るを待ってみるのか? それよりも寧《いっ》そ我手で一思《ひとおもい》に……
 でないことさ、そう気を落したものでないことさ。活《いき》られるだけ活《いき》てみようじゃないか。何のこれが見付かりさえすれば助かるのだ。事に寄ると、骨は避《よ》けているかも知れんから、そうすれば必ず治る。国へ帰って母にも逢える、マ、マ、マリヤにも逢える……
 ああ国へはこうと知らせたくないな。一思《ひとおもい》に死だと思わせて置きたいな。そうでもない偶然《ひょっと》おれが三日も四日も藻掻《もがい》ていたと知れたら……
 眼が眩《ま》う。隣歩きで全然《すっかり》力が脱けた。それにこの恐《おッそ》ろしい臭気は! 随分と土気色になったなア! ……これで明日《あす》明後日《あさって》となったら――ええ思遣られる。今だって些《ちっ》ともこうしていたくはないけれど、こう草臥《くたびれ》ては退《の》くにも退《の》かれぬ。少し休息したらまた旧処《もと》へ戻ろう。幸いと風を後《うしろ》にしているから、臭気は前方《むこう》へ持って行こうというもの。
 全然《すっかり》力が脱けて了った。太陽は手や顔へ照付ける。何か被《かぶ》りたくも被《かぶ》る物はなし。責《せめ》て早く夜になとなれ。こうだによってと、これで二晩目かな。
 などと思う事が次第に糾《もつ》れて、それなりけりに夢さ。

 大分永く眠っていたと見えて、眼を覚してみればもう夜。さて何も変った事なし、傷は痛む、隣のは例の大柄の五体を横たえて相変らず寂《じゃく》としたもの。
 どうも此男の事が気になる。遮莫《さもあれ》おれにしたところで、憐《いとお》しいもの可愛《かわゆい》ものを残らず振棄てて、山超え川越えて三百里を此様《こん》なバルガリヤ三|界《がい》へ来て、餓えて、凍《こご》えて、暑さに苦しんで――これが何と夢ではあるまいか? この薄福者《ふしあわせもの》の命を断ったそればかりで、こうも苦しむことか? この人殺の外に、何ぞおれは戦争の利益《たし》になった事があるか?
 人殺し、人殺の大罪人……それは何奴《なにやつ》? ああ情ない、此おれだ!
 そうそう、おれが従軍しようと思立った時、母もマリヤも止めはしなかったが、泣いたっけ。何がさて空想で眩《くら》んでいた此方《このほう》の眼にその泪《なみだ》が這入《はい》るものか、おれの心一ツで親女房に憂目《うきめ》を見するという事に其時はツイ気が付かなんだが、今となって漸《よ》う漸う眼が覚めた。
 ええ、今更お復習《さらい》しても始まらぬか。昔を今に成す由もないからな。
 しかし彼時《あのとき》親類共の態度《そぶり》が余程《よッほど》妙だった。「何だ、馬鹿|奴《め》! お先真暗で夢中に騒ぐ!」と、こうだ。何処を押せば其様《そん》な音《ね》が出る? ヤレ愛国だの、ソレ国難に殉ずるのという口の下から、如何《どう》して彼様《あん》な毒口《どくぐち》が云えた? あいらの眼で観ても、おれは即ち愛国家ではないか、国難に殉ずるのではないか? ではあるけれど、それはそうなれど、おれはソノ馬鹿だという。
 で、まず、キシニョーフへ出て来て背嚢《はいのう》やら何やらを背負《せおわ》されて、数千の戦友と倶《とも》に出征したが、その中でおれのように志願で行くものは四五人とあるかなし、大抵は皆成ろう事なら家《うち》に寝ていたい連中《れんじゅう》であるけれど、それでも善くしたもので、所謂《いわゆる》決死連の己達《おれたち》と同じように従軍して、山を超《こ》え川を踰《こ》え、いざ戦闘となっても負けずに能《よ》く戦う――いや更《もっ》と手際《てぎわ》が好いかも知れぬてな。尤も許しさえしたら、何も角《か》も抛《ほっ》て置いて※[#「勹<夕」、第3水準1−14−76]々《さっさ》と帰るかも知れぬが、兎も角も職分だけは能《よ》く尽す。
 颯《さっ》と朝風が吹通ると、山査子《さんざし》がざわ立《だ》って、寝惚《ねぼけ》た鳥が一羽飛出した。もう星も見えぬ。今迄薄暗かった空はほのぼのと白《しら》みかかって、※[#「車+(而+大)」、第3水準1−92−46]《やわらか》い羽毛《はね》を散らしたような雲が一杯に棚引き、灰色の暗霧《もや》は空へ空へと晴て行く。これでおれのソノ……何《なに》と云ったものかしら、生にもあらず、死にもあらず、謂わば死苦《しく》の三日目か。
 三日目……まだ幾日《いくか》苦しむ事であろう? もう永くはあるまい。大層弱ったからな。此|塩梅《あんばい》では死骸の側《そば》を離れたくも、もう離れられんも知れぬ。やがておれも是になって、肩を比《なら》べて臥《ね》ていようが、お互に胸悪くも思はなくなるのであろう。
 兎に角水は十分に飲むべし。一日に三度飲もう、朝と昼と晩とにな。

 日の出だ! 大きく盆のようなのが、黒々と見ゆる山査子《さんざし》の枝に縦横《たてよこ》に断截《たちき》られて血潮のように紅《くれない》に、今日も大方熱い事であろう。それにつけても、隣の――貴様はまア何となる
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