事ぞ? 今でさえ見るも浅ましいその姿。
ほんに浅ましい姿。髪の毛は段々と脱落《ぬけお》ち、地体《じたい》が黒い膚《はだ》の色は蒼褪《あおざ》めて黄味さえ帯び、顔の腫脹《むくみ》に皮が釣れて耳の後《うしろ》で罅裂《えみわ》れ、そこに蛆《うじ》が蠢《うごめ》き、脚《あし》は水腫《みずばれ》に脹上《はれあが》り、脚絆の合目《あわせめ》からぶよぶよの肉が大きく食出《はみだ》し、全身むくみ上って宛然《さながら》小牛のよう。今日一日太陽に晒《さら》されたら、これがまア如何《どう》なる事ぞ? こう寄添っていては耐《たま》らぬ。骨が舎利《しゃり》に成ろうが、これは何でも離れねばならぬ――が、出来るかしら? 成程手も挙げられる、吸筒《すいづつ》も開けられる、水も飲めることは飲めもするが、この重い動かぬ体を動かすことは? いや出来ようが出来まいが、何でも角《か》でも動かねばならぬ、仮令《たとえ》少しずつでも、一時間によし半歩ずつでも。
で、弥《いよいよ》移居《ひっこし》を始めてこれに一朝《ひとあさ》全潰《まるつぶ》れ。傷も痛《いたん》だが、何のそれしきの事に屈《めげ》るものか。もう健康な時の心持は忘《わすれ》たようで、全く憶出《おもいだ》せず、何となく痛《いたみ》に慣《なじ》んだ形だ。一間ばかりの所を一朝かかって居去《いざ》って、旧《もと》の処へ辛《かろ》うじて辿着《たどりつ》きは着いたが、さて新鮮の空気を呼吸し得たは束の間、尤も形の徐々《そろそろ》壊出《くずれだ》した死骸を六歩と離れぬ所で新鮮の空気の沙汰も可笑《おか》しいかも知れぬが――束の間で、風が変って今度は正面《まとも》に此方《こっち》へ吹付ける、その臭さに胸がむかつく。空《から》の胃袋は痙攣《けいれん》を起したように引締って、臓腑《ぞうふ》が顛倒《ひッくりかえ》るような苦しみ。臭い腐敗した空気が意地悪くむんむッと煽付《あおりつ》ける。
精も根も尽果てて、おれは到頭泣出した。
全く敗亡《まいっ》て、ホウとなって、殆ど人心地なく臥《ね》て居《おっ》た。ふッと……いや心の迷の空耳かしら? どうもおれには……おお、矢張《やっぱり》人声だ。蹄《ひづめ》の音に話声。危なく声を立てようとして、待てしばし、万一《ひょっと》敵だったら、其の時は如何《どう》する? この苦しみに輪を掛けた新聞で読んでさえ頭《かみ》の髪《け》の弥竪《よだち》そうな目に遭《あ》おうも知《しれ》ぬ。随分|生皮《いきがわ》も剥《はが》れよう、傷《て》を負うた脚《あし》を火炙《ひあぶり》にもされよう……それしきは未《まだ》な事、こういう事にかけては頗る思付の好《い》い渠奴等《きゃつら》の事、如何《どん》な事をするか知《しれ》たものでない。渠奴等《きゃつら》の手に掛って弄殺《なぶりごろ》しにされようより、此処でこうして死だ方が寧《いっ》そ勝《まし》か。とはいうものの、もしひょッと是が味方であったら? えい山査子奴《さんざしめ》がいけ邪魔な! 何だと云ってこう隙間なく垣のように生えくさった? 是に遮《さえぎ》られて何も見えぬ。でも嬉やたった一ヵ所窓のように枝が透《す》いて遠く低地《ひくち》を見下される所がある。あの低地《ひくち》には慥《たし》か小川があって戦争|前《ぜん》に其水を飲だ筈。そう云えばソレ彼処《あすこ》に橋代《はしがわり》に架《わた》した大きな砂岩石《さがんせき》の板石《ばんじゃく》も見える。多分是を渡るであろう。もう話声も聞えぬ。何国《どこ》の語《ご》で話ていたか、薩張《さっぱり》聴分られなかったが、耳さえ今は遠くなったか。己《おの》れやれ是が味方であったら……此処から喚《わめ》けば、彼処《あすこ》からでもよもや聴付けぬ事はあるまい。憖《なまじ》いに早まって虎狼《ころう》のような日傭兵《ひやといへい》の手に掛ろうより、其方が好《い》い。もう好加減《いいかげん》に通りそうなもの、何を愚頭々々《ぐずぐず》しているのかと、一刻千秋の思い。死骸の臭気は些《いささか》も薄らいだではないけれど、それすら忘れていた位。
不意に橋の上に味方の騎兵が顕《あらわ》れた。藍色の軍服や、赤い筋や、鎗の穂先が煌々《きらきら》と、一隊|挙《すぐ》って五十騎ばかり。隊前には黒髯《くろひげ》を怒《いか》らした一士官が逸物《いちもつ》に跨《またが》って進み行く。残らず橋を渡るや否や、士官は馬上ながら急に後《うしろ》を捻向《ねじむ》いて、大声《たいせい》に
「駈足イ!」
「おおい、待って呉れえ待って呉れえ! お願いだ。助けて呉れえ!」
競立《きそいた》った馬の蹄《ひづめ》の音、サーベルの響、がやがやという話声に嗄声《しゃがれごえ》は消圧《けお》されて――やれやれ聞えぬと見える。
ええ情ないと、気も張も一|時《じ》に脱けて、パッタリ地上へひれ伏しておいおい泣出した。吸筒《すいづつ》が倒れる、中から水――といえば其時の命、命の綱、いやさ死期《しご》を緩《ゆる》べて呉れていようというソノ霊薬が滾々《ごぼごぼ》と流出る。それに心附いた時は、もうコップ半分も残ってはいぬ時で、大抵はからからに乾燥《はしゃ》いで咽喉《のど》を鳴らしていた地面に吸込まれて了っていた。
この情ない目を見てからのおれの失望落胆と云ったらお話にならぬ。眼を半眼《はんがん》に閉じて死んだようになっておった。風は始終|向《むき》が変って、或は清新な空気を吹付けることもあれば、又或は例の臭気に嗔咽《むせ》させることもある。此日隣のは弥々《いよいよ》浅ましい姿になって其惨状は筆にも紙にも尽されぬ。一度|光景《ようす》を窺《うかが》おうとして、ヒョッと眼を開《あ》いて視て、慄然《ぞっ》とした。もう顔の痕迹《あとかた》もない。骨を離れて流れて了ったのだ。無気味《ぶきび》にゲタと笑いかけて其儘固まって了ったらしい頬桁《ほおげた》の、その厭らしさ浅ましさ。随分|髑髏《されこうべ》を扱って人頭の標本を製した覚もあるおれではあるが、ついぞ此様《こん》なのに出逢ったことがない。この骸骨が軍服を着けて、紐釦《ぼたん》ばかりを光らせている所を見たら、覚えず胴震が出て心中で嘆息を漏した、「嗚呼《ああ》戦争とは――これだ、これが即ち其姿だ」と。
相変らずの油照《あぶらでり》、手も顔も既《も》うひりひりする。残少なの水も一滴残さず飲干して了った。渇《かわ》いて渇いて耐えられぬので、一滴《ひとしずく》甞める積《つもり》で、おもわずガブリと皆飲んだのだ。嗚呼《ああ》彼《あ》の騎兵がツイ側《そば》を通る時、何故《なぜ》おれは声を立てて呼ばなかったろう? よし彼《あれ》が敵であったにしろ、まだ其方が勝《まし》であったものを。なんの高が一二時間|責《せめ》さいなまれるまでの事だ。それをこうして居れば未だ幾日《いくか》ごろごろして苦しむことか知れぬ。それにつけても憶出《おもいだ》すは母の事。こうと知ったら、定めし白髪《しらが》を引※[#「てへん+劣」、第3水準1−84−77]《ひきむし》って、頭を壁へ打付けて、おれを産んだ日を悪日《あくび》と咒《のろ》って、人の子を苦しめに、戦争なんぞを発明した此世界をさぞ罵《ののし》る事《こッ》たろうなア!
だが、母もマリヤもおれがこう※[#「足へん+宛」、第3水準1−92−36]死《もがきじに》に死ぬことを風の便《たより》にも知ろうようがない。ああ、母上にも既《も》う逢えぬ、いいなずけのマリヤにも既《も》う逢えぬ。おれの恋ももう是限《これぎり》か。ええ情けない! と思うと胸が一杯になって……
えい、また白犬めが。番人も酷《むご》いぞ、頭を壁へ叩付けて置いて、掃溜《はきだめ》へポンと抛込《ほうりこ》んだ。まだ息気《いき》が通《かよ》っていたから、それから一日苦しんでいたけれど、彼犬《あのいぬ》に視《くら》べればおれの方が余程《よッぽど》惨憺《みじめ》だ。おれは全《まる》三日苦しみ通しだものを。明日《あす》は四日目、それから五日目、六日目……死神は何処に居《お》る? 来てくれ! 早く引取ってくれ!
なれど死神は来てくれず、引取ってもくれぬ。此凄まじい日に照付られて、一滴水も飲まなければ、咽喉《のど》の炎《も》えるを欺《だま》す手段《てだて》なく剰《あまつ》さえ死人《しびと》の臭《かざ》が腐付《くさりつ》いて此方《こちら》の体も壊出《くずれだ》しそう。その臭《かざ》の主《ぬし》も全くもう溶《とろ》けて了って、ポタリポタリと落来る無数の蛆《うじ》は其処らあたりにうようよぞろぞろ。是に食尽《はみつく》されて其主が全く骨と服ばかりに成れば、其次は此方《こッち》の番。おれも同じく此姿になるのだ。
その日は暮れる、夜が明ける、何も変った事がなくて、朝になっても同じ事。また一日を空《あだ》に過す……
山査子《さんざし》の枝が揺れて、ざわざわと葉摺《はずれ》の音、それが宛然《さながら》ひそめきたって物を云っているよう。「そら死ぬそら死ぬそら死ぬ」と耳の端《はた》で囁《ささや》けば、片々《かたかた》の耳元でも懐しい面《かお》「もう見えぬもう見えぬもう見えぬ」
「見えん筈じゃ、此様《こん》な処《とこ》に居《お》るじゃもの、」
と声高《こえだか》に云う声が何処か其処らで……
ぶるぶるとしてハッと気が付くと、隊の伍長のヤーコウレフが黒眼勝の柔《やさ》しい眼で山査子《さんざし》の間《あいだ》から熟《じっ》と此方《こちら》を覗いている光景《ようす》。
「鋤《すき》を持ち来い! まだ他《ほか》に二人おる。こやつも敵ぞ!」という。
「鋤《すき》は要らん、埋《うめ》ちゃいかん、活《いき》て居るよ!」
と云おうとしたが、ただ便《たより》ない呻声《うめきごえ》が乾付《からびつ》いた唇を漏れたばかり。
「やッ! こりゃ活《い》きとるンか? イワーノフじゃ! 来い来い、早う来い、イワーノフが活きとる。軍医殿を軍医殿を!」
瞬く間に水、焼酎、まだ何やらが口中《こうちゅう》へ注入《そそぎい》れられたようであったが、それぎりでまた空《くう》。
担架は調子好く揺れて行く。それがまた寝《ね》せ付《つけ》られるようで快い。今眼が覚めたかと思うと、また生体《しょうたい》を失う。繃帯をしてから傷の痛《いたみ》も止んで、何とも云えぬ愉快《こころよき》に節々も緩《ゆる》むよう。
「止まれ、卸《おろ》せ! 看護手交代! 用意! 担《にな》え!」
号令を掛けたのは我衛生隊附のピョートル、イワーヌイチという看護長。頗る背高《のッぽう》で、大の男四人の肩に担《かつ》がれて行くのであるが、其方へ眼を向けてみると、まず肩が見えて、次に長い疎髯《まばらひげ》、それから漸く頭が見えるのだ。
「看護長殿!」
と小声に云うと、
「何《なン》か?」
と少し屈懸《こごみかか》るようにする。
「軍医殿は何と云われました? 到底助かりますまい?」
「何を云う? そげな事あッて好《よか》もんか! 骨に故障が有るちゅうじゃなし、請合うて助かる。貴様は仕合《しあわせ》ぞ、命を拾うたちゅうもんじゃぞ! 骨にも動脈にも触れちょらん。如何《どう》して此三昼夜ばッか活《いき》ちょったか? 何を食うちょったか?」
「何も食いません。」
「水は飲まんじゃったか?」
「敵の吸筒《すいづつ》を……看護長殿、今は談話《はなし》が出来ません。も少し後で……」
「そうじゃろうそうじゃろう寝ろ寝ろ。」
また夢に入《い》って生体《しょうたい》なし。
眼が覚めてみると、此処は師団の仮病舎。枕頭《まくらもと》には軍医や看護婦が居て、其外|彼得堡《ペテルブルグ》で有名な某《ぼう》国手《こくしゅ》がおれの傷《て》を負った足の上に屈懸《こごみかか》っているソノ馴染《なじみ》の顔も見える。国手は手を血塗《ちみどろ》にして脚《あし》の処で暫く何かやッていたが、頓《やが》て此方《こちら》を向いて、
「君は命拾《いのちびろい》をしたぞ! もう大丈夫。脚《あし》を一本お貰い申したがね、何の、君、此様《こん》な脚《あし》の一本|位《ぐらい》、何でもないさねえ。君もう口が利《き》け
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