ブアクション》なぞは其卑近の一例で、斯んな心持ちがする……云々と云う事も亦其働きだ。だから識覚の上にのぼって来る思想だけじゃ、到底人間全体の型は付けられない。じゃ、何うすりゃ好《い》いかと云うに、矢張《やっぱ》りそりゃ解らんよ。ただ手探りでやって見るんだ。要するに人間生きてる以上は思想を使うけれども、それは便宜の為に使うばかり。と云う考えだから、私の主義は思想《シンキング》の為《フォーワ》の思想《シンキング》でもなけりゃ芸術《アート》の為《フォーワ》の芸術《アート》でもなく、また科学《サイアンス》の為《フォーワ》の科学《サイアンス》でもない。人生の為の思想、人生の為の芸術、将《は》た人生の為の科学なのだ。
人生《ライフ》、々々《ライフ》というが、人生《ライフ》た一体何だ。一個の想念《ノーション》じゃないか。今の文学者連中に聞き度いのは、よく人生に触れなきゃ不可《いかん》と云う、其人生だ。作物を読んで、こりゃ何となく身に浸みるとか、こりゃ何となく急所に当らぬとかの区別はある。併しそれが直ちに人生に触れる触れぬの標準となるんなら、大変軽卒のわけじゃないか。引緊った感を起させる、起させぬの
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