いよ》成って見れば、やはり子供の心持に還る。これ変ったと云えば大に変り、変らんと云えば大に変らん所じゃないか。だから先きへばかり眼を向けるのが抑《そもそも》の迷い。偶《たま》には足許も見ては何《ど》うか。すると「いや、此儘で幸福だ」というような事がありはせんか、と、まア思うんだな。
私は何も仏《ほとけ》を信じてる訳じゃないが、禅で悟を開くとか、見性成仏《けんしょうじょうぶつ》とかいった趣きが心の中《うち》には有る。そんなら今が幸福だと満足して、此上に社会改良も何も不必要かと云うに然うでもない、大変パラドクサルになって了って……ある意味じゃ此儘幸福だが、他の意味じゃ不幸福だ。一見矛盾しているようだが私の心では為《し》て居らん。ここが象徴派《シムボリスト》と同じ所へ来ている証拠じゃないかと思う。だから人が文学や哲学を難有《ありがた》がるのは余程後れていやせんかと考えられる。第一其等が有難いと云うな、偽《うそ》の有難いんだ。何となれば、文学哲学の価値を一旦根底から疑って掛らんけりゃ、真の価値は解らんじゃないか。ところが日本の文学の発達を考えて見るに果してそう云うモーメントが有ったか、有るまい。今の文学者なざ殊に、西洋の影響を受けていきなり[#「いきなり」に傍点]文学は有難いものとして担ぎ廻って居る。これじゃ未だ未だ途中だ。何にしても、文学を尊ぶ気風を一旦壊して見るんだね。すると其|敗滅《ルーインス》の上に築かれて来る文学に対する態度は「文学も悪くはないな!」ぐらいな処《とこ》になる。心持ちは第一義に居ても、人間の行為は第二義になって現われるんだから、ま、文学でも仕方がないと云うように、価値が定《き》まって来るんじゃないかと思う。
一寸親子の愛情に譬えて見れば、自分の児は他所《よそ》の児より賢くて行儀が可《い》いと云う心持ちは、濁って垢抜けのしない心持ちである。然るに垢抜けのした精美《リファインド》された心持ちで考えると、自分の児は可愛いには違いないが、欠点も仲々ある、どうしても他所の児の方が可い、併し可愛いとなる。これと同じ事で、文学にしがみ[#「しがみ」に傍点]付いて、其でなきゃ夜も日も明けぬと云うな、真に文学を愛するもんじゃないね。今の文学者が文学に対する態度は真面目になったと云うが、真面目じゃなくて熱心になっただけだろう。法華信者が偏頗《へんぱ》心で法華に執着す
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