何と云っても今はまだレフレクションの影響を免がれていない。十九世紀で暴威を逞くした思索の奴隷になっていたんで、それを弥々《いよいよ》脱却する機会に近づいているらしく見える。新理想とか何とか云い出すな、まだレフレクションに捉われてる証拠さ。併しさすがに以前の理想では満足出来ん所から、新理想主義になって来たんだ。文学の方で最近の傾向はシンボリズムとか、ミスチシズムとか云うのだが、イズム[#「イズム」に傍点]の中《うち》に彷徨《うろつ》いてる間《うち》や未だ駄目だね。象徴主義で云う霊肉一致も思想だけで、真実一致はして居らんじゃないか。で、私は露語の所謂ストリャッフヌスト(身震いする)と云ったような時代……つまりこびり[#「こびり」に傍点]着いて居る思想の血を払って、新たな清い生活に入ろうとする過渡の時代のように今を思う。思想じゃ人生の意義は解らんという結論までにゃ疾くに達しているくせに、まだまだ思想に未練を残して、やはり其から蝉脱することが出来ずに居るのが今の有様だ。文学が精神的の人物の活動だというが、その「精神」が何となく有り難く見えるのは、その余弊を受けて居るんで、霊肉一致どころじゃない、よほど霊が勝《まさ》ってる証拠だ。だからシンボリストでも、思想では霊肉一致だろうが自分の存在では未だ其処までは行って居らんよ。そんなら行き着いた先きは何うなるかと云うに、そりゃ想像は一寸付かん。第二義から第一義に行って霊も肉も無い……文学が高尚でも何でも無くなる境涯に入れば偖《さ》てどうなるかと云うに、それは私だけにゃ大概の見当は付いているようにも思われるが、ま、ま、殆ど想像が出来んと云って可《い》いな。――ただ何だか遠方の地平線に薄ぼんやりとあかるく夜《よ》が明けかかっているような所が見えるばかりだ。
未知《アンノーン》の神《ゴット》、未知《アンノーン》の幸福《ハッピネス》――これは象徴派《シムボリスト》のよく口にする所だが、あすこいらは私と同じ傾向に来て居るんじゃないかと思うね。併し彼等はまるで今迄とは性質の変った思いもかけぬ神様や幸福が先きにあるように考えてるらしいが、私はそうは思わん。我々が斯うして生きてるのは即ち「アンノーン、ハッピネス」じゃないか。ただ気が付かずに迷ってるだけだ。聖人は赤児の如しという言葉が、其に幾らか似た事情で、かねて成り度いと望んでた聖人に弥々《いよ
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