、これ、お待ち(覗き込んで)そつちへ行つて何をするつもりだ?
ノラ (内から)人形の衣裳を脱ぎます。
ヘルマー (入口の所で)あゝ、さうおし。少し靜かにして落着くといゝさ。家の小鳥さん、じつとして休むがいゝ。俺の廣い翼の下でかばつてやるから(扉の傍をあちこち歩きながら)あゝ、實に美しい――平和な家庭だな。ノラ、かうしてゐさへすればお前は安全なものだ。鷹に追つかけられた鳩のやうなお前をかうやつて私が救つてゐてやる。今にその胸の動悸も靜めてやるよ。ノラ、今すぐ靜めてやるよ。全體どうして私はお前を追ひ出すの叱りつけるのと、そんな氣持になつたらう。ノラさんは生粹の男の胸中といふものを知るまい。男が自分の妻の過去を――率直に許した時の、その氣持といふものはいふにいへない美しい穩かなものだよ。女はその時から二重に男の持物になる。いはゞ二度生れ替つたやうなものだ。妻であると同時に子供になる。お前もこの後は私に對してさういふ關係になるよ。いゝかい、もう何も氣にかけないでお出で。たゞもうその胸を開いて、私に任せてゐれば、私がお前の意志にも良心にもなつてやる(ノラ、不斷着に着かへて入り來り、テーブルの方へ横ぎる)おや、どうしたんだ? 寢室へは行かないのか、着物を着かへて――
ノラ えゝ、あなた、やつと着物を着かへましたよ。
ヘルマー けれども、どうしてこんなに遲く?
ノラ 今夜は私、寢ないのです。
ヘルマー でもお前――
ノラ (懷中時計を見て)まだそんなに遲くはありません。ちよつと坐つて下さいな。あなた、お互にいひたいことが澤山あるから(テーブルの一方の椅子にかける)
ヘルマー ノラ、どうした譯だ、その冷たいむづかしい顏付は――
ノラ 坐つて下さい。幾らか暇が取れるでせうから、私、澤山あなたに話したい事があるのですよ。
[#ここから3字下げ]
(ヘルマーはテーブルの向側に腰を下ろす)
[#ここで字下げ終わり]
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
ヘルマー 出しぬけに變ぢやないか、お前のいふことはさつぱりわからない。
ノラ おわかりになります? つい今夜まで――貴方には私といふ者がわからないし、私には貴方といふ者がわからなかつたのですよ。いゝえ、待つて下さい。私のいふことを聞いて下さればよいのです。私達は愈々最後の極りをつける時になりましたわ、あなた。
ヘルマー (大して氣づかずに)それはどういふ譯だ?
ノラ (暫く默つてゐた後)あなたは、かう二人向き合つてゐて、一つ不思議な事があるとはお思ひにならないの?
ヘルマー 何だらう?
ノラ 私達が結婚してから、もう八年になりますね。それに不思議ぢやありませんか[#「ありませんか」は底本では「ありせんか」]。あなた[#「あなた」は底本では「あな」]と私が夫婦差し向ひになつて眞面目な話をしたことは、つひぞ一度もありません。
ヘルマー 眞面目な話……ふむ、どういふ話?
ノラ 丸八年、もつと經つたでせう――始めて私達が知合つてからといふもの――私達はたゞの一度も眞面目なことを眞面目な言葉で話し合つたことはありませんよ。
ヘルマー すると、お前ぢやどうすることも出來ないやうな心配事まで持ちかけてお前に苦勞させろといふのか?
ノラ 私、心配ごとをいつてるのぢやありません。私達はどんなことだつて、つひぞ底の底まで眞面目に話し合つたことがないといふのですよ。
ヘルマー でもお前、眞面目なことなんかお前の柄にないことぢやないか?
ノラ えゝ、そこなの、あなたは少しも私といふものを理解していらつしやらなかつたでせう? 私は今まで大變まちがつた取扱ひを受けてをりました。第一は父からですし、その次はあなたからですよ。
ヘルマー 何をいふ? お前のお父さんと私から間ちがつた取扱ひだと?――あれほど深くお前を愛してゐた俺たちに?
ノラ (頭を振りながら)あなたは決して私を愛していらつしやつたのではありません。愛するといふことを慰みにしてお出でなすつたのです。
ヘルマー どうしたんだらう。隨分不條理な恩知らずのいひ方ぢやないか。お前はこの家へきて幸福だとは思はないか?
ノラ いゝえ、ちつとも、そんなことは思ひません。始めはさう思つてゐましたけれど、間違ひでした。
ヘルマー 幸福でなかつたと?
ノラ えゝ、面白をかしく暮らしてきたのです。あなたにはいつも親切にして頂きましたけれど、家は子供の遊び部屋でしかなかつたのですよ。その中で私は、あなたの人形妻になりました。丁度父の家で人形子になつてゐたのと同じことです。それから子供がまた順々に私の人形になりました。そして私が子供と一緒に遊んでやれば喜ぶのと同じやうに、あなたが私と遊んで下されば、私には面白かつたに違ひありません。それが私達の結婚だつたのですよ。
ヘルマー 大げさにい
前へ 次へ
全37ページ中34ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
島村 抱月 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング