ひすぎたところはあるが、お前のいふことにも道理はある。しかし今日からはそれを一變させる、遊びごとの時代が過ぎて今は教育の時代が來たのだ。
ノラ 誰の教育です? 私のですか、子供のですか?
ヘルマー それはお前、兩方さ。
ノラ あなたの力では、私を教育してあなたに適する妻になさることはできません。
ヘルマー お前がそんなことをいふのか?
ノラ それはそれとして、私は子供を教育するのに相應はしいかしら?
ヘルマー ノラ! もう止せよ。
ノラ あなたご自身で、つい二三分前に、子供は私に托されないとおつしやつたぢやありませんか?
ヘルマー 激したはずみにつひいつたのだ。どうしてお前そんなことに拘はつてるのだ。
ノラ やはり私には子供は托されません――あなたのおつしやる通りです。さういふ問題は、私の力に及ばないのです。私にはそれより先に解釋しなければならぬ問題があるのですよ――私は自分を教育する工風をしなくちやなりません。それにはあなたの助けは役に立ちませんから、私獨りで始めます。私がこれ切りお別れするのは、そのためです。
ヘルマー (びつくりしてとび上り)何だと?――どういふ意味だか――
ノラ 自分自身や周圍の社會を知るために、私は全く一人になる必要があります。ですから、この上あなたと一緒にゐることは出來ないといふのです。
ヘルマー ノラ! お前!
ノラ 私はすぐ行かうと思ひます。今夜はクリスチナさんが泊めてくれませうから――
ヘルマー お前は氣が狂つた。俺はそんなことは許さん。禁じますぞ。
ノラ 今となつて何を禁じようとおつしやつても無駄です。そんなことは無用ですよ。それでは私、自分の身の廻りの物を持つて行きます。あなたからは、この後も一切お世話にならない積りでゐます。
ヘルマー 狂氣の沙汰だな。
ノラ 明日、私は生れた所へ行きます。
ヘルマー 生れた町へ!
ノラ 生れた町といつても今は何にもありませんけれど。何か生活の便宜があるかと思ひますから。
ヘルマー どうしてお前のやうな何もわからない世間知らずが――
ノラ ですからあなた、生活の經驗を積む工夫をしなくちやなりません。
ヘルマー それで家も夫も子供も振り捨てようなんて。お前は世間の思はくといふものを考へてゐない。
ノラ そんなことには構つてゐられません。私はたゞしようと思ふことは是非しなくちやならないと思つてるばかりです。
ヘルマー 言語同斷だ、お前は全體そんな風にしてお前の一番神聖な義務を棄てることが出來るのか?
ノラ 私の一番神聖な義務といふのは何でせう?
ヘルマー それを私に尋ねるのかい。夫に對し子供に對するお前の義務を。
ノラ 私には同じやうに神聖な義務が他にあります。
ヘルマー そんなものがあるものか、どんな義務といふのだ。
ノラ 私自身に對する義務ですよ。
ヘルマー 何よりか第一に、お前は妻であり母である。
ノラ そんなことはもう信じません。何よりも第一に私は人間です。丁度あなたと同じ人間です――少くともこれから、さうならうとしてゐるところです。無論、世間の人は大抵あなたに同意するでせう。書物の中にもさう書いてあるでせう。けれどもこれからもう、私は大抵の人のいふことや書物の中にあることで滿足してはゐられません。自分で何でも考へ究めて明らかにしておかなくちやなりません。
ヘルマー お前は家庭における自分の地位といふものを知つてないのか? お前だつて何等かの道徳心は持つてゐようから、それとも何かえ、お前には良心さへもないのだらうか?
ノラ さうですね、それはむずかしいことでせう。私にはよくわかりません――そんなことには全く見當がつかないのです。ただ私、あなたのお考へなさるのと全く違つて考へてゐるといふだけは申されます。それからまた、法律だつて私の思つてたこととはまるで違ふといふぢやありませんか。そんな法律は私、正しいとは信じられません。娘が死にかゝつてゐる父をいたはる權利も夫の命を救ふ權利もないといふのですから信じられませんね。
ヘルマー お前のいふことは子供のやうだ。お前は自分の住んでゐる社會を理解しない。
ノラ えゝ、わかつてゐません。これから一生懸命わからうと思ひます。社會と私と――どちらが正しいか決めなくてはなりませんから。
ヘルマー ノラ! お前は病氣になつたのだ。熱病に罹つたのだ。殆んど本心を失つてゐはしないかと思はれるよ。
ノラ 今までに今夜ほど氣分のはつきりしてゐることはありません。
ヘルマー それほどはつきりした考へで、夫や子供を棄てるといふのかい?
ノラ さうです。
ヘルマー ではもう、説明の途は、たゞ一つしか殘つてゐない。
ノラ それはどういふのですか?
ヘルマー お前はもう俺を愛しない。
ノラ 愛しません、それが大事な點です。
ヘルマー ノラ!
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