つた、お前がいふ通り、お前が世の中から消えてしまつたところで、それが私に對して何の役に立つ? 何にもなるものぢやないよ。あいつはそんなことに頓着なく、この事件を公にするだらう。さうなると私は共犯人と見られまいものでもない。世間では私がこの事件の蔭にゐてお前を教唆したのだと思ふのだ。そして、それはみんなお前のお蔭なのだ。お禮をいつておくぞ。結婚して以來、たゞもう大事にして可愛がつてやつたそのお前のお蔭なのだ。さあ、これだけいつたら、お前のしたことがわかつただらう。
ノラ (冷靜に)はい。
ヘルマー 實に、あるまじきことだ。事實とは思へない。しかしとにかく打ち合せをして片をつけなくちやならない。その肩掛けを脱いでおしまひ。脱げといつてるぢやないか。先づどうかして彼奴を宥める必要がある――どんなことをしても祕密は飽くまでも保たなくちやならない。それから私とお前とは、今まで通りにやつて行く。しかしそれは勿論世間體だけのことだ。お前もやつぱりこの家にゐるのは無論だが、子供の教育はお前には任されない。こいつは決してお前に任す譯には行かない――たゞ、こんなことを、あれほど愛してやつた女にいはなくちやならんとは、今だつて愛してやる心は違ひないのだが。しかしもう駄目だ、今日からは幸福といふものはなくなつてしまふ。無意味な破れた幸福の影を引きずつて行くだけだ。(ベルの音がする。ヘルマー身を起す)何だあれは? こんなに遲く! 愈々やつてきたのかな? 彼奴かしら――ノラ、お前は隱れなさい。さうだ、病氣だといつてやる。
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(ノラは身動きもしないで立つてゐる。ヘルマー扉の方へ行つて開ける)
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ヘルマー エレンか?
エレン (着物を引かけたまま廊下で)奧樣にお手紙が參りました。
ヘルマー 私によこせ(手紙を引つかんで扉を閉める)さうだ、あいつからだ。お前はいけないよ、俺がよむ。
ノラ 讀んで下さい。
ヘルマー (ランプの傍で)讀む勇氣も出ない。二人の身の破滅だらう。私もお前も、いや讀む必要がある。(急いで手紙を荒く開く。二三行讀んで封入してあるものを見る、喜びの叫聲)ノラ!
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(ノラは不思議さうに男を見る)
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ヘルマー ノラ! どうしたといふんだ、待つた、もう一度讀んで見よう。さうだ/\。やつぱりさうだ。俺は助かつたよ、ノラ、私は助かつたよ。
ノラ 私は?
ヘルマー 無論お前もだ、二人とも助かつた、二人とも。これご覽、あの男がお話の證文を返してきた。手紙には思ひ返した、詫をすると書いてある。これから幸福な生涯に入ると書いてある――まあ、あの男のことなんかどつちでもかまはないが、俺達は助かつたな、ノラ、これでもう誰もお前を苦しめる者は無いよ。ねえ、ノラ、だが先づ何よりもこの嫌なものをなくしてしまはう。も一度見て――(證文をちよつと見て)いや見まい/\。今までのことは、私にとつては馬鹿馬鹿しい夢のやうなものだ。(證文と二通の手紙とを裂いてずた/\にする、そして火の中に投じて燃えるのを見詰める)さあ、これでいゝ。手紙によると、クリスマスの晩から――してみると、ノラ、この三日といふもの、お前は隨分辛かつたらうな。
ノラ この三日の間、全く死物狂ひでしたのよ。
ヘルマー そして他に苦しみを逃れる道といつては無いんだから――いや、もう、あの恐ろしいことは考へまいね。俺達はたゞ愉快に祝つて、もうすんだもうすんだと繰返しておかう――これノラ、お前俺のいつてることが聞えないかえ。まだ判然と事柄が呑み込めないやうだな。さうだよ、もう何もかもすんだよ。どうしたのだ、そのむつかしい顏付は。あゝわかつた。可哀さうにお前は俺がまだ怒つてると思つてるね。俺はもう許してやつたんだよ。誓つて許したよ。一切許してやつたんだからね。お前のしたことはみんな私を愛する心から出たことだと、それは俺にはよくわかつてるよ。
ノラ それだけは本當です。
ヘルマー お前は妻として充分私を愛してくれた。たゞ手段を誤まつたのだ。けれども私は、そんな弱點のためにお前を可愛がらないやうな男ぢやないよ。そんな男ぢやないから、たゞ私に寄り縋つてさへゐればいゝ。私はお前の相談相手にも案内者にもなるよ。萬一、お前の女らしい弱點が一しほ哀れに見えないやうな俺なら、本當の男でないさ。さつきは出しぬけでびつくりしたものだから非道いこともいつたが、あんなことを氣にかけちやいけないよ。あの時は全く世界が耳元で、でんぐり返るかと思つた。私はもうお前を許したよ。ノラ、誓つて許したよ。
ノラ お許し下すつて、有難うございます(右手から出て行く)
ヘルマー あ
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