閉ぢ籠つて死ぬ覺悟でゐるのですよ。
ヘルマー 可哀さうに。無論長くは持つまいと思つたが、しかしかう急にとはなア。
ノラ ですけど、成るやうにどうせ成るのですから、誰だつて默つて行く方がいいのですよ。さうは思ひませんか? あなた。
ヘルマー (あちこちと歩きながら)あの男とは特に親しくしてゐたものだから、ゐなくなつたと聞いても本當とは思へない。あの男の身についてゐた色んな苦しみだの淋しさだのが、雲の懸つたやうに私達の幸福な日光を包んでゐたのだが、さうさな、詰りはかうなるのが一番よかつたらう――少くとも當人のためには(突つ立つて)それからおそらく、私達にだつてその方がいゝかも知れない。ねえノラ。さあ、これで愈々私達二人は全く差し向ひになつたといふものだ(兩手に女を抱き)ねえ、お前、私は何だかまだお前をしつかりと私の物にすることが出來なかつたやうな氣がする。あのねえ、ノラ、私は折々さう思ふが、何かお前の身の上に非常な危險が降りかゝつてきて、そして私がそれを救ふために身體も生命も、その他、ありとあらゆる物をなげうつてみたらどうだらう。
ノラ (身をすり拔け確乎とした調子で)さあ、あなた、その手紙を讀んで下さい。
ヘルマー いや/\。今夜は止さう、お前のお伽をするよ、ねえ。
ノラ あなたの死にかゝつてゐるお友達のことを考へながらですか?
ヘルマー それもさうだな、お蔭で二人ともとんだ目に會つた。私とお前の仲にまで何だか厭なものが出てきて死ぬの亡びるのといふことを考へさせる。どうかしてこんな考へを忘れてしまはなくちやならないが、それまでは、まあ別々にゐてやるよ。
ノラ (夫の首に兩腕を卷いて)あなた、お休みなさい。
ヘルマー (女の額に接吻しながら)お休みよ、家の小鳥さん、よくお休み、どれ行つて手紙でも讀んでみるか。
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(ヘルマーは自分の室に入り扉を閉める)
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ノラ (狂氣の目付で身の廻りを手探り、ヘルマーのドミノの上衣を掴んで自身に打ちかけ、早口に嗄れた切々の口調で囁く)もう二度とあの人には會へない。もう/\どんなことがあつても(頭からショールを被る)子供にももう會へない。もう會へない。あゝ、あの黒い氷のやうな水――あの底の知れない――あゝ、こんなことにならずに濟んでしまつたら(ショールをかける)あゝ、丁度今あの人が手紙を取つて讀んでゐる。いゝえ/\、まだ/\、さようなら。あなた――そして子供達も達者でおいで――
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(女は廊下から走り出ようとする。その瞬間にヘルマーが手荒く扉を開け、開いた手紙を手に持つて現はれる)
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ヘルマー ノラ!
ノラ (叫びながら)あゝ!
ヘルマー これは何だ? この手紙の中に書いてあることを、お前は知つてるか。
ノラ はい知つてゐます。ですから私もう行きます。通して下さい。
ヘルマー (引き留めながら)どこへ行くといふんだ。
ノラ (振り離さうとして)私を助けて下さらなくてもいゝんです、あなた。
ヘルマー (よろめきながら)やつぱり本當だ! この中に書いてあるのは本當なのか?――いや、いや、こんなことが本當であらう筈はない。
ノラ 本當です、それといふのも私、あなたを愛するためには何をしてもいゝと思つたからです。
ヘルマー 辯解はしなくてもよろしい。
ノラ (一足夫の方へ進んで)あなた――
ヘルマー 困つた奴! 何といふことをやつたのか――
ノラ だから私を行かして下さいよ――私を助けて下さらなくともよいのです。あなたが自身で私の罪を着るには及びません。
ヘルマー お芝居は止せ(扉の錠を下ろす)こゝにゐて、すつかり自分のしたことを話すがいゝ。お前には自分のしたことがわかつてるのか、返事をしろ、自分のしたことがわかつてゐますか?
ノラ (固くなつてじつとヘルマーを見る)はい、今始めてよくわかりました。
ヘルマー (あちこちと歩きながら)考へて見れば實に何といふ恐ろしいことだらう。この八年の間――私の誇りにして喜んでゐたその女が――僞善者、嘘つき――そればかりならいゝが、もつと情けない、情けない罪人なのだ――えゝ汚らはしい(ノラは默つてじつと男を見てゐる)お前は私の幸福といふものを全く打ち壞してしまつた。私の將來は亡びてしまつた。あゝ、考へても恐ろしい。私は惡人の手中に陷つてゐるのだ。あの男のしたいまゝにさせろ、そいつの欲しいだけ貪られても私は默つて聞いてゐなくちやならない。そしてこの災難は、みんなお前のお蔭なのだ。
ノラ 私がゐなくなつたら、あなたのご迷惑はなくなります。
ヘルマー 甘いことをいふな。お前のお父さんも、いつも口が巧か
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