。信じ得る人の心は平和であろうが、批評する人の心はいつも遑々《こうこう》としている。ここに至って私は自分の強梁《きょうりょう》な知識そのものを呪《のろ》いたくなる。

     五

 自分は何らの徹底した人生観をも持っていない。あらゆる既存の人生観はわが知識の前にその信仰価を失う。呪うべきはわが知識であるとも思うが、しかたがない。何らかの威力が迫って来て、私のこの知識を征服してくれたら、私は始めて信じ得るの幸福に入るであろう。
 されば現下の私は一定の人生観論を立てるに堪えない。今はむしろ疑惑不定のありのままを懺悔《ざんげ》するに適している。そこまでが真実であって、その先は造り物になる恐れがある。而してこの私を標準にして世間を見渡すと、世間の人生観を論ずる人々も、皆私と似たり寄ったりの辺にいるのではないかと猜《さい》せられる。もしそうなら、世を挙げて懺悔の時代なのかも知れぬ。虚偽を去り矯飾を忘れて、痛切に自家の現状を見よ、見て而してこれを真摯《しんし》に告白せよ。この以上適当な題言は今の世にないのでないか。この意味で今は懺悔の時代である。あるいは人間は永久にわたって懺悔の時代以上に超
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