越するを得ないものかも知れぬ。
以上を私が現在において為《な》し得る人生観論の程度であるとすれば、そこに芸術上のいわゆる自然主義と尠《すく》なからぬ契機のあることを認める。けれども芸術上の自然主義はもっと広い。また芸術は必して直接にわれらの実行生活を指揮し整理する活動でもない。
六
余論としてここに一言を要するのは、史上にいわゆる人生観上の自然主義である。過去において明らかにかような名辞を用いたのは、私の知る限りでは、Professor W. H. Hudson のルーソー論に Naturalism in Life と言っているのなどがその最近の例である。これは言うまでもなくルーソーの「自然に還れ」「自然の人」「反文明」「反人巧」の人生観に冠した名であるが、もしこれを定限とすれば、さような人生観上の自然主義は、私に取っては疑惑内の一事実たるに止って、解決の全部とはならない。
ニイチェが人生観の、本能論の半面にあらわれた思想も、一種の自然主義と見る人がある。それならこれもまたルーソーの場合と同しく、わが疑惑内の一事実を提示するに過ぎないのは言うを待たぬ。
ロシアの作
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