\九年、アーチャー(William Archer)氏の飜譯が出來てからである。
アメリカの方はイギリスよりも早く、千八百八十三年十二月、かの女優モッヂェスカによつて、ケンタッキー州ルイズヴ※[#小書き片仮名ヰ、150−11]ルで初めてノラをトラ(Thora)といふ題に變へて演じた。その結果はめでたく收まるやうに出來てゐたと傳へられるが、ドイツで用ひたものに基いたのか、それとも別の脚色を加へたのかは明かでない。
『人形の家』の英語に譯せられた初めは、原作の出た翌年千八百八十年でコーペンヘーゲンのヴェーベル(T. Weber)といふ人によつて『ノラ』と題して飜譯せられた。しかしこの譯者は英語の力の足りない人であつたため、頗るまづいものであつたといふ。次に出た飜譯は千八百八十二年イギリスのロード(Miss H. F. Lord)といふ婦人が同じく『ノラ』といふ題で譯したものである。イブセンを大膽なる女權論者として見た序文がついてゐる。次はモッヂェスがアメリカの興行に用ひたもので、女優の夫や書記やその他の人々相寄つて譯したものであるといふ。
アーチャー氏の典據的な飜譯が出たのは千八百八十九年で、同年六月七日から二十九日までロンドンの新奇座で女優エチャーチの一座で演じた、その臺本の記念出版である。このとき初めて英語で『エ・ドールス・ハウス』即ち『人形の家』と題せられた。しかしもつと原名に忠實にするためには『エ・ドール・ホーム』(A Doll Home)即ち『人形家庭』とすべきであつたと『イブセン演説及新書簡集』の編者キルドール(Arne Kildal)氏はいつてゐる。とにかくこの譯で『人形の家』の定本が出來たとともに、舞臺に演ぜられた者としても、初めてイブセン劇の完全に近い者がイギリスに見られることゝなつた。この興行の重なる役割は次の如くであつた。
[#ここから2字下げ]
ヘルマー………………ハーバート・ウェヤリング(Herbert Waring)
ノラ……………………ジェネット・エチャーチ(Miss Janet Achurch)
ランク…………………チャールス・チャーリントン(Charles Charington)
クログスタッド………ロイス・カールトン(Royce Carlton)
リンデン夫人…………ジャートルード・ウォーデン(Mrs. Gertrude Warden)
[#ここで字下げ終わり]
この劇の第一夜で、イブセンは初めて眞にイギリスにその文名を樹てたと稱せられる。エチャーチはシェークスピア劇を演じても有名な女優であつた。しかしてこの一座は、この興行を打上げると、すぐオーストラリアに航することゝなつて、オーストラリア、ニウジーランド、印度、エヂプトと『人形の家』を演じて囘つた。
以上の順序で、出版後十年前後のあひだに『人形の家』は歐米全土に擴まつてもつて今日に及んだ。日本では明治三十四年高安月郊氏がはじめてこれを譯した。今ここに公にする譯本は、一旦明治四十三年一月の『早稻田文學』に掲げられたものに小訂正を加へたのである。この譯はアーチャー氏の英譯とランゲ氏の獨譯とを基とした。
明治四十四年九月二十二日から三日間、文藝協會はその研究所の舞臺開を兼ねて、第一囘私演にこの脚本を演じた。但しこの時は第一幕と第三幕のみで、中間の幕が省かれたため、劇全體としての印象は不完全たるを免れなかつたが、それでも我が國においては新劇としてほとんど前例のない程な成功を得、引きつゞいて同年十一月二十八日から一週間、同協會第二囘公演として、帝國劇場で『人形の家』三幕全部を上場した。
これが我が國における『人形の家』の最初の興行であるとともに、廣く近代劇としても、在來の女形と稱する男優を用ひず、女優を主として成功した眞面目な劇の最初である。その時の役割は、
[#ここから2字下げ]
ヘルマー 土肥庸元
クログスタッド 東儀季治
ランク 森英治郎
使の男 西原勝彦
子供 きよ子
てい子
エレン 横川唯治
アンナ 佐々木積
リンデン夫人 廣田濱子
ノラ 松井須磨子
[#ここで字下げ終わり]
同じ一座は、翌明治四十五年三月十四日から一週間、大阪中座で同じく『人形の家』を開演し、これまた好成績であつた。
『人形の家』の歴史は大體以上のやうなものである。
大正二年三月
[#地から2字上げ]抱月生
底本:「人形の家」角川文庫、角川書店
1952(昭和27)年8月15日初版発行
1961(
前へ
次へ
全10ページ中9ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
島村 抱月 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング