傍点]ることの証拠だ。この有[#「有」に白丸傍点]ることを生命だというなら生命と言ってもよい。クリストという男は永遠の生命に触れれば泉のごとく尽きずと言ったそうだが、なるほど泉のごとく尽きないことは真理だ。しかしその永遠であることが絶大な歓喜であると説くのは少なくとも己にとっては赤の嘘である。己達は永遠にある。どれ程無くなろうと思っても無であることは許されない。死という有[#「有」に白丸傍点]に変り得ても全然無[#「無」に白丸傍点]くなることは出来ないのだ。己達には全宇宙は知ることが出来ない。しかし全宇宙は遂に全宇宙で己達は知らないでも、それは永久の同じい有[#「永久の同じい有」に白丸傍点]であることは確かである。己達はその全宇宙の一部として永遠に有であることも確かである。己達は死ぬ。しかしそれは決して己達が考えるような死ではない。だから死んで苦しみが脱却されるわけではない。宗教家は苦を脱した解脱を説くけれど、その解脱というものは生に対する死、苦痛を脱したと思う苦痛に過ぎないじゃないか。苦痛という苦痛を神もしくは救済という苦痛と置き変えるだけじゃないか。要するにどうにもならないのだ。どうかしたいということとどうかしたという、それはたま/\名称を置き変えたに過ぎないので、本質は同じ変らぬことをやっているのに過ぎないのだ。人類が滅亡すれば己達はまた何か別なものになっていることだろうよ」
「また、いつもの君の哲学が出ますね、君の言うことは真理かも知れません。しかし僕はホイットマンの詩に歓びを感じることも事実です――それに、僕達は僕達以上の存在、神人もしくは人間神を予想し得ないでしょうか。例えば君の永遠の苦痛である生命も苦痛でないような――」
「馬鹿を言いたまうな。神人、人間神の苦痛が己達に分るものか。燃ゆる太陽を見たまえ! あの太陽が崩れる時が来たら、その破片から人間以上の怪物が生まれるかも知れない。神の国は苦痛の太極にあるのだ」
「――」
 宮岡は黙した。平一郎も黙していた。沈んだ尾沢の語調がひとり響いた。静寂をはた/\とかすれるような音のするのは雪が降り出したのであろう。火鉢の炭火は燃えさかって、ぱち/\火花を散らした。静かである。静けさは十分間ばかりも続いた。誰もものを言う気になれなかった。ものを言うことがこの厳かな静けさを汚すようで恐ろしかった。階下で足駄の雪をはらう音がしたのに、三人共助かったという風に顔を見合わした。ついで階段を昇る衣ずれの音が聞えた。それ程に静かな冬の深い夜であった。
「尾沢さん、いらしって?」静子が小さな声で言ってあがって来た。彼女の前髪に白い雪片が消えかかっていた。
「静子か」
「尾沢さん」彼女はぺたり尾沢の正面に坐った。彼女は笑わなかった。
「どうかしたのかい」
「尾沢さん、わたしと結婚して下さらない?」
「突然にどうかしたのかな」
「わたし銀行を出されてしまいましたの。――あなたのせい[#「せい」に傍点]で。お腹ではもう時々動いていますわ」
「本当かい」尾沢は訊《き》いた。真面目だった。
「本当ですの」
「己は知らないよ」
 尾沢は冷やかに裁判官が審判するように言い放った。静子ははじめ真面目に受け取らないらしかったが、尾沢の冷やかな表情はそれを真面目にとらさずにおかなかった。静子の豊かな肉付の顔がはじめて蒼くなった。彼女は容易にものが言えないようであった。すると、超意識的に憑かれた人のような乾いた笑いが彼女の顔を歪めた。
「わたし、ここより行くところは無いのですから。今夜から泊めて頂戴! 半年やそこら遊んで生活して行く金は持っていますから」
 そう言って静子は羽織を拡げて尾沢に彼女の腹部を見せるようにした。
「もう五月ですわ」
 彼女の腹はよく見ると随分大きく膨れていた。尾沢は冷やかに視つめていた。
「己の子だというのかね」
「そうよ、あなたの子ですよ」
「あはははははは。…………………………………子が出来れば男の責任にしてしまうのかい。あははははは、尾沢が子持ちになるのか。あははははは」尾沢は虚しく笑いこけた。
 尾沢の家から烈しい吹雪の夜路を平一郎は帰って来ると母のお光が寝ずに待っていた。いつもなら彼女は寂しい顔をして平一郎を吐息と共に見るのであるが、今夜は彼女の顔は柔らいでいた。「平一郎、冬子さんがこの月末に久しぶりで金沢へ帰って来るそうですよ」
 それは平一郎にも意外な悦びであった。冬子が去ってから足かけ二年の歳月が経っていた。その間冬子の消息は時折ないではなかったが、東京日本橋の繁華な街の裏通りに、土蔵付きの小さな別宅を貰って、そこに婆やと小娘とに傅《かしず》かれて住んでいること、天野が隔日に泊りに来ること、天野の勢力の偉大なことなどより外に詳しい冬子の生活は知りようがなかった。一年半といえば随分短いようで、しかも平一郎母子には長い、変移の多い時日である。彼は冬子に会うのが恥かしいような切なさを感じた。お光はお光で苦しい独り子のための生活を振り返ってみた。冬子が去ってしまってから日々の生活に追われながら一日も忘れたことのないあの彼女一人の胸に秘めている「埋れた過去」の運命の秘密が、新しい苦痛と恐ろしさを持って甦って来た。(何という不幸な自分達だろう。)それにしても冬子に会えることは母子にとって悦びであった。
「一人で来るのかしら。え、母さん」
「いいえ」お光はためらって、「先方の、天野の旦那様のお供をして来るですってね」
「そうですか。それじゃつまらない」
(和歌子が東京へ嫁入った、そして今、冬子がやってくる。)平一郎は訳もなくそういうことを考えて、自分の行きづまった生気のない幽鬱な現在の生活を二人の前に羞じずにはいられない気がした。ああ、ほんとに、この同じ地上には和歌子もいれば冬子もいるのだ。どうして自分は立派な人間にならないでおこうか。彼には今のままで学校へ行くことが本能的に苦痛になって来ている。彼は自分はどうしたらよいのだろうと考えた。世界が暗くなって感じられた。彼は眠られない深夜、眼を開いたまま涙をこぼした。

 三月の三十日、ほんの二、三日のうちに暖かさを増した晩冬の太陽が街上を流れる雪どけの水に映る日であった。お光は寒気がするので離室で寝ていた。午後、赤々と太陽が障子に射しているのを夢心地で眺めていると、障子に人の影が映った。
「どなた」
「小母さん、わたしですの。冬子ですの」
「小母さん暫くでございました」
 障子が開けられた。冬子は長い間頭を上げなかった。
「まあ、おはいり。今日は寒気がしたものですから――」そして、お光は冬子と顔をあわした。涙がゆるやかに湧くのを止めるようにお光はにこやかに柔らいで、
「ほんとに、夢でないのかしら。でも、冬子さんは少しも変わらないで」と言った。
「小母さんも――」そして冬子は啜り泣きはじめてしまった。
 冬子は今のさき、春風楼の女達に会って心づくしの土産物などを差し出したのだが、皆がまるで異邦人のように隔って碌な挨拶さえしてくれなかった悲しさに胸が一杯になっているところへ、お光の変わらない静かな愛情に泣けたのである。
「ほんとに、ほんとに、いつまでも変わらないのは小母さんだけでございます」
(ああ、お光の胸にこそあの昔の故郷がある。)冬子は昨夜、天野と一緒に古龍亭へ着いたこと、二日ばかりこちらにいる筈のこと、どんなにこちらへ来ることを楽しみにしていたか知れないこと、しかし春風楼へ来ても皆があまりに無愛想で悲しくなったこと、でも「小母さん」に会えて嬉しいこと、東京の生活も決して楽ではなく、始終気苦労が絶えないこと、などをこま/″\言葉少なに話していたが、突然にお光の顔を見つめて、
「小母さん」と呼びかけた。
「何んですの」お光は微笑した。
「小母さんは天野の旦那様の奥さまによく似ていらしってよ!」
「どうして?」とお光は穏かに言いかえしたが、眼を伏せた。
「わたしがはじめて今いる日本橋の家へ落着いてから間もなく天子様がおかくれになったでしょう。あの御大葬の儀式をわたし日比谷公園の前――宮城の間近なんですのよ――に旦那様の会社の持地がありますので、そこで会社のお方と御一緒に拝まして頂きましたの。わたし、そのときは随分辛い思いを致しました。まるで旦那様と何の関係もない人間のように取り澄ましていなくてはならないのでしょう。夜も更けて、もう御霊柩が宮城を出なさろうという時分、ふと傍を見ますとフロックコートを着た会社の方の間に小母さんそっくりの女の方の顔が見えましたの。わたしはそのとき自分の眼の迷いではないかしらと思いましてようく見ていますと、その方は小母さんよりか肥っていて、小母さんよりか眼の怕い顔容《かおつき》で、小母さんよりか立派でだん/\小母さんに似ていなくなりましたが、あんまり不思議で傍の人にそっと聞いてみますと、小母さん、それが天野さんの奥様なのでした。――そのとき感じた水を浴びるようなすまないような情けないような妬ましいような心持は、わたし一生忘られません。それに小母さんにそっくりなんですもの、わたし何んと言って好いか分らない位、深い恐ろしさを感じたのでございますの」
 冬子はそれから、妾という生活の本当のどん底は頼りない寂しいものであること、今でもいつ捨てられはしまいかという不安の絶えないこと、社会的に常にある迫害と擯斥《ひんせき》が絶えないことを話した。
「何んだか、こう二年もお別れしていたような気がしなくなりましてよ、小母さん、何んと言ったらいいでしょう、ほんとに自分の母親に甘えているような気がしますのよ」
 お光は顔を伏せずにいられなかった。お光は自分の心に不可抗な不安と離隔と、一切を知るものの寂しさを感じて来たからだった。(天野の妻が自分に似ているのも無理はない。彼女は自分の同胞であるのだもの! ――そしてあの天野は自分の姉の綾子を抱く次の夜はこの冬子を抱いているのか※[#疑問符感嘆符、1−8−77])
「小母さん、平一郎さんは?」
「何処へ行ったのか今朝から見えませんのです。わたしもあれ[#「あれ」に傍点]のこの頃にはどうしてよいか困っております」とお光は日々の苦労を打ち明けずにいられなかった。お光は、平一郎が停学に処分されたことから、学校を厭がっていること、幽鬱で気が荒くなっていることを打ち明けた。
「どうしてよいかわたしにも分りません。ただ、あまり干渉がましいことをするよりか、なるべく自由にしとく方があの子の気象にも好いと思ってはおりますが、それに学資だって冬子さん、中学を卒業するまで続くかどうかさえが危ぶまれる位でしてね」
 お光はしみ/″\心配そうに話した。こうした苦しみは話するだけで、幾分軽くなるものである。冬子はお光の話を一生懸命に聞いていた。そして話の中途から、熱心さで瞳が輝きはじめた。
「小母さん、平一郎さんを東京へお出しになったらいかがでして? ――え、そうなさいましな、ね、小母さん」
「え?」とお光は眼を見はった。本能的な母親としてのみ動いていた意識がぱあっと展《ひら》けて、四十幾年の苦労を静かに堪えて来た全部のお光が冬子の言葉が意味する独り子の未来を洞察した。(決して平一郎を東京へはやれない!)
「そうなすってはいけないでしょうか。天野さんには坊っちゃまがお一人しかありませんですの。それで誰か一人、坊っちゃまのお相手をして、ゆく/\は杖とも柱ともなってくれるような人がいれば世話をしてみたいと仰《おっ》しゃっていらっしゃいますの。小母さん、平一郎さんならわたしどんなにでもして旦那様に申しあげますわ。わたしのお願いですから平一郎さんのお世話をやらして下さい」
(ああ姉を奪って行った天野、冬子を奪って行った天野、間接には兄を狂わせ夫を殺し、自分達の未来を保証する全資産を尽さしめた天野、その天野は今、また自分の独り子の平一郎をも奪って行こうとするのか。)不可思議な運命のはてしない曠野の道筋において「彼奴《あいつ》天野」が次第にまためぐりあわせ近づいてくる。
「小母さん、そうなすって下さい。い
前へ 次へ
全37ページ中30ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
島田 清次郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング