していることが分った。彼は尾沢と静子があるように、未来自分と和歌子がありたいとも欲しなかった。また、彼は幾度となく尾沢のグループに接する毎にそこに本然的にある隔たりの大きくなるのを知った。それは尾沢達が現代の勢力団に対して抱く不満のように、尾沢達に対して抱かれる次の時代の批判、不満であった。平一郎には尾沢達の周囲に漂うあの「絶望」と「暗黒」の臭気に時々堪えられなくなるのであった。それは平一郎がまだあまりに若すぎるためかもしれなかった。平一郎が彼等の年齢に達して彼等のような思想に変わりはてるかも知れなかった。しかし今は、彼は時折、尾沢達と共に同じ狂乱と感激の嵐に捲き込まれて悲しい歌を高唱する刹那においても、彼はいつまでもこうしておられないような、このままこの嵐に捲き込まれて遠い無明に押し流されては堪らないような感じを得ていた。いつまでこうして過ぎるのか、いつまでこうして絶望に沈淪していても仕方がないではないか、と彼の内心に無言の声は響いていた。しかしこれは瞬間に現われる底潮であった。尾沢や静子や山崎や瀬村や、大きい呉服店の番頭をしている若い純な商業学校出の永井やは彼にとって常に先輩的な感情を起こさせ、それらの人の生活に触れることは何んという慰め、歓びであったろう。山崎が蒼い西洋人のような眼を天空に注いで星学上の話をするときの輝く天体の偉大と不思議と、さらに山崎の浄《きよ》い熱とは人生に珍しい美であった。瀬村が写真帳をもって来てギリシャ・ローマ時代の彫刻やロダンやミケルアンジェロの彫像について語り、また、文芸復興期の偉大な芸術家について語るのを聞くことは彼の生涯にとって四年間の中学の授業よりも深刻な印象を与えたのであった。平一郎には永井の苦しんでいる恋愛の心理ははっきり分らなかった。けれど苦しさの程度は自分の苦しみに反照して推察出来ないでもなかった。純な人ずれのしない青年の永井が世間から見れば破廉恥な罪悪である不良青年のような恋をしていることに、そこに不自然な感じがまるでないことは、彼も分った。むしろ彼とは幼な馴染みであるという愛子が自分の亡き父に多少の金を貸していた人間のものとなることがどれほど不自然な事実と感じられたか知れない。このように恋するのが自然であるべき永井と愛子にしても不正な社会的制約の下においては苦しまねばならない二人であり、どうしてよいか分らないで曠野にとり残されたような悲しみと寂寥を感じる二人であった。
「僕達はこのように多くの人間の間に生息しながら、曠野へ追放された罪人みたいなものです。僕にはこれが正しいこととは思えない」と言って永井が涙ぐむのをグループの人達は黙って見ているより仕方なかった。どうかしてやりたさに人々は胸一杯に想いは充ちても、さてどう出来得るであろうか。二人を全然別離させることも出来ず、愛子を円満に離縁さして永井と結婚させることも出来ず、――出来得ることは少女誘拐で牢獄へはいること位でしかなかった。人々は今更のように、自分達の無力に驚かねばならなかった。
「僕達のようになっちゃだめですよ。え、大河君、僕達は要するに人生の勝利者ではない。僅かに路上で血みどろになって戦っている者です。しかもどうかすると敗亡しそうな弱虫でさあ。ね、僕達を真似ちゃだめですよ。僕達を踏み越えて、僕達がわずかに開拓して敗死したとき屍を乗り越えて真実の勝利の凱歌をあげてくれなくちゃ。え、大河君」と山崎はよく言った。そう言った心持は、尾沢や皆の者に共通な、彼等の次の時代である大河と深井の少年らしい姿をしげ/\と見守り祈るような、同時に彼等自身の険しかった半生とさらに暗険であろう未来を想ってみるような広大な寂しい感情であった。一月、二月、平一郎は彼等を訪ねて時は流れて行った。その間、和歌子の行方はまるで知られなかった。
[#改ページ]
第八章
三月が来た。北国の三月はまだ厳しい冬である。雪は深くは降らないが、降れば消えなかった。朝の凍って刃のような大地に冬の冷たい赤光がきら/\光った。それは三月の中頃のある朝、平一郎は丁度学年試験の第二日で、彼の好きな歴史と幾何の日であるので、薄暗くから起きて学校へ行く用意をしていた。春風楼の茶の間には淀んだ赤暗い電燈が灯されていた。彼は寝静まった人達の目を醒さないよう、昨日から雪片がしみついて鉄のようになった靴をはいて戸外へ出ようとした。戸をあけると白い三月の朝の明るみにすかされて、一通の封筒が土間に落ちているのが見えた。第一回の配達が戸のすき間から入れて行ったものらしい。彼は手にとって見た。手紙は見憶えのある手で「大河平一郎様」とあった。和歌子から来た手紙であった。彼は何んだか少しも歓びを感じなかった。(ああ、あまりに待たしすぎた便りではなかったか!)雪は降っていなかったが、凍結した堅い大地の上にくり/\の雪が一、二寸も積っていた。彼は外套の頭巾をぬいで、手紙を読みつつ歩いた。
[#ここから2字下げ]
……おゆるし下さいまし、おゆるし下さいまし、わたしが悪いのです、わたしが弱いのです。「何を怕《こわ》がるのです、今に僕も成長《おお》きくなります)、と仰有《おっしゃ》ったあなたのお言葉はこの手紙を書いている時でさえ弱いわたしの心に鳴り響いています。しかし、わたしは、平一郎さま、おゆるし下さいまし、母の言葉に従って他所へ嫁入るのです。わたしを思う存分に憎しみなすって下さいまし。わたしはあの去年の秋の手紙のこと以来母の強い叱責を受け、東京へ送られてしまったのです。あなたにお手紙を差しあげなかったのは差しあげる気がどうしてもしなかった故です。おゆるし下さいまし。……しかし、平一郎様、わたしは平一郎様をどうして忘れることが出来ましょう。わたしは長生きいたします、きっと。平一郎さま、短気を起こさずにほんとにえらくなって下さいまし。そしてこの哀れな背いた女を見反《みか》えるようになって下さいまし。……わたしの夫になる人はあなたとは十も年上の洋画家です――
[#ここで字下げ終わり]
誤りではないかと彼は思って幾度となく読み返した。しかし読み返す必要はなかった。一度でもう彼はこの手紙の事実が真実であることを知ってしまったのだ。彼が感じた空虚な感じを失望というのであろうか。彼は学校でも幾何の問題を解いているときも、東洋史のイギリス人の印度征服の答を叙述しているときも、彼は和歌子のことを想っていた。どう想っているのか彼には分らない。ただ想っているのであった。それはたとえようのない空虚感。
印度の征服の問題にそれが歴史の答案であることを忘却して無茶苦茶に英国人の辛辣を攻撃して三枚ものべつに書いて彼は教室を誰よりも先に出て来た。控室から彼は運動場に出た。北国の冬に珍しい澄明な青い空だった。運動場一面に張り凍った氷に冬の陽光は輝いている。彼は和歌子の手紙をポケットからとり出して熟視せずにいられなかった。するとある一つの輝きが彼の頭脳に閃き彼は全身的に叫んだのだ。
「えらくなるぞ!」彼には和歌子を憎む情は微塵も起きなかった。彼は和歌子の(長生きいたします、きっと)を繰り返し読んでいると泉のように懐かしさが湧いて来た。えらくなる、えらくなる、えらくなって愛する和歌子と交わらずに置くものか! 彼は運動場を駈け廻りたくなった。氷はつる/\滑るによかった。彼は運動場の光った平面を滑って歩いた。全身が汗ばんで、新しい生気が溢れて来た。
「大河君」深井が近寄って来た。
「深井君。来たまえ!」深井が微笑を浮かべてやって来た。
「これを見たまえ」深井が受け取って読むのを、平一郎も息をはずませて見戍《みまも》っていた。
「和歌子さんは東京へ嫁に行ったのだ」こう言ったとき平一郎はさすがに寂しい取り返しのつかないことになった悲哀を感じた。深井は繰り返し繰り返し読んでいた。やがて頭を上げた彼の顔は蒼白であった。平一郎は深井から手紙を受け取ってもう一度、「えらくなるぞ!」と怒鳴った。
冬の光は二人を照していた。ひろごる輝ける氷の平面の彼方には、E山脈の荘厳な峯が白光を放っていた。
「大河君」
「何だい」
「僕のことは一言も書いてないね!」
「え※[#疑問符感嘆符、1−8−77]」
平一郎は深井の白い顔に溢れ出る涙を見た。深井は洋服の腕を顔にあててたまらないようにせき上げせき上げ泣いた。
「深井君、どうしたのだ」と平一郎は彼の背をさすっているうちに、無意識の世界から(ああ、そうであったのか)と新しい認識が光り出でた。彼は深井の背をさするのを止めて黙然と立った。複雑な悲哀が彼を囚えてはなさなかった。涙が彼の両目にも溢れて来た。(それを知らぬわけではなかった。深井、許してくれ、知らぬわけではなかった。)彼は深井の手を握って許しを乞うように堅くふった。
自然の運行は無窮で始めなく終りはないであろうが、その廻り行く生成の姿は、ただ単調なリズムではない。ある時は全然無活動で平凡で単調であるが、ある時は嵐のように狂暴な力となって一時にあらゆる可能を尽さしめる。人間の運命にも、人が事件の過ぎ去った後で考えてみると、運命は実にそのリズムであることを信ぜずにはいられないことが多い。平一郎は和歌子の上京と結婚を知ってから、想いは未来の夢に燃えながら現実では空虚と暗鬱から到底逃れられなかった。――もし僕が二度この世に生まれて来るものなら、そして和歌子さんが同時に二度この世に生まれて来れるものなら、あるいは僕はこのままで思い切ることが出来るかも知れません。しかし僕には僕の一生は今のこの一つよりしかないものだと信じられます。僕は僕の生涯にどうあっても和歌子さんを求めます。この世の運命を僕は和歌子さんに結びつけずに考えることは出来ませぬ。ああ、僕には僕よりも十歳も年上の男の人妻である和歌子さんを想像することは出来ない。僕には和歌子さんはいつまでも頬を赤くする熱情的な少女です――こう平一郎は感激した文字を深井に送ったこともある。「男子が嘗めねばならない不幸と苦しみ」――独立期が晩成であるために初恋を奪われる苦痛を平一郎は嘗めねばならなかった。堪らないことであった。
「大河君、僕も苦しい」と深井は言った。
苦しい熱病人のように夢中で試験をすましたその夜、平一郎は尾沢の家を訪ねる気になった。彼の精神に消化し切らない食物のように和歌子のこと、深井のこと、自分のことが未解決のままで渦巻いていた。
二階では尾沢と高等学校の学生の宮岡が熱烈に話し込んでいた。
「しかしホイットマンが、我が祭歌を浮かべるは歓喜をもってだ、汝に歓喜をもってだ、死よ、と歌っているように、死はたしかに安らかに永遠の安息だと考えられますよ」
「宮岡君、もう止めてくれたまえ!」尾沢は眼をとじて堪らなさそうに宮岡の熱した言葉を止めさせた。宮岡は情熱をさえぎられて、眼鏡越しに尾沢をじろり睨みつけた。
「どうかしましたか」
「己には性に会わないようだから、止してくれたまえ! ホイットマンはそういう風な死の思想を抱いている人とは思われないが――いや有難う。もう止してくれたまえ――」
「どう君と合わないのです。昨日も友人と彼の『草の葉』を学校で読んで思わない発見に歓び合っていたのです、どう君に合わないのです」
「ホイットマンが詩人であるからだ。死と生とを別物のように考えているからだ。死といい生というのは人間の不完全な認識が勝手につけた名称に過ぎないのだと僕は信じます。こうしていることが生であるなら『死』といわれている現象も生の一部分です。死は休息じゃない。断じてない。死もまた生だ。だから死もまた苦痛だ。死んで己達が無くなると信ずることは人間が真理を認識する恐ろしさに堪えないで自分で自分の眼をかくすめかくし[#「めかくし」に傍点]に過ぎないのだ。こうして己達であるこの己達がどこにどうして全然無[#「無」に白丸傍点]くなることが出来ると思うのか。全然無[#「無」に白丸傍点]くなることの出来るものなら、こうしてここに表われはしない。表われている限り己達は永遠に有[#「有」に白丸
前へ
次へ
全37ページ中29ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
島田 清次郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング