しよう。今夜は飲もう。静子さんもおいでよ、ね。――大河君、大河君、君も来たまえ」
「ええ」と平一郎も立ち上がった。
五人の群は戸外に出た。雪は降っていなかったが、黒藍の寒空に星が二つ三つ光っていた。高等学校の学生である宮岡は長いマントをかぶりながら、静かな夜更けを愛誦の歌を朗吟するのだった。
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頬につたふ涙のごはず一握の砂を示しゝ女《ひと》を忘れず
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「石川啄木! いいね、啄木は!」
「長らえようか永らえまいか――あはっはっはっ、ハムレットは馬鹿だね、己達がこうして生きているということが、とりもなおさず死の国からの便りじゃないかね。死の国から一人も帰ったものがないどころか、死の国からこうしてこの全世界が帰っているじゃないかね。あはははは、ハムレットはまだおめでたいものさ」
色硝子の紫や紅や青や黄金色の硝子を透して輝く光彩が路上を染めていた。ドアを押して一群は室内に入った。
「いらっしゃいまし」と白いエプロンと後ろの赤い帯との対照の美しい給仕女がこの奇異な一群を迎えた。階下の食堂では、熱帯性植物の青い厚い葉蔭から、若い絵師の一群がマンドリンを掻き鳴らしている姿が覗かれた。
「二階へ行くよ。おい、二階のあの奥の方へ通してくれないか」尾沢は黒いソフトと黒いマントを脱いで階段を昇った。二階は日本風な座敷がこしらえてあった。
「永井! 日本酒か。色のある奴か」
「両方もらおう。――ううん、日本酒の熱い奴にしてくれ。おい、日本酒の熱いのに、うまい肉の生焼きをもって来い!」
「はい」と給仕女は下りて行った。掻き鳴らすマンドリンの春の小川の甘い囁きのようなメロデイが階下から響いて来た。それはあまりに五人にとっては別の世界の音楽であった。重苦しい厳粛な沈黙と絶え入るような絶叫の大交響楽が階上の一室に高らかに鳴り響いていた。新鮮な肉と芳醇な酒とが彼等の心肉を温めて来た。尾沢は酒を呷《あお》りつつ雄弁に語りはじめた。
「永井! 止せ止せ、くだらない心配は止せ! お前が愛子さんを連れて逃げたりしてどうするつもりだ。もっと善良な悪党になれ! ………………………………………………――そうじゃないか、先方の奴が人間としての存在さえなくなればそれでいいのじゃないか。蜜蜂だってうまく自然に他殺することを知っているからね。愛子さんさえそのつもりになれば、だ」
「どんな方法がある?」
「一つある。しかし己には出来ない方法だ。同時に言ってならない方法だ」
「どうして言えない※[#疑問符感嘆符、1−8−77]」と永井は殺気を含んだ充血した目をあげた。
「――女には出来る。男には出来ない」
「じゃ、わたしには出来ることなのね」と静子は酔いのめぐった、生理的な昂奮を抑え切れないで大きな声を出した。
「お前には出来ない。愛子さんなら出来る」こう言って尾沢は盃に溢れる熱い液をすすった。
「その話はもう止してもらおう。――ね、尾沢君、君はドストエフスキイを読みましたか」
「ドストエフスキイの何を?」
「全部を」
「君は己が外国語に自由な人間だと思っているのか」
「でも二、三、翻訳があるでしょう――」
「己は読まない。己はドストエフスキイという作家を知らない。知っていたら教えてくれたまえ」
「いやね、僕の同級《クラス》の奴から『カラマーゾフの兄弟』の英訳をかりてはじめて知って、それから英訳で及ぶ限り読んだのですがね――」
「ふん」
「『罪と罰』という作にス※[#濁点付き片仮名ヰ、1−7−83]ドリガイロフという奴がいるんですね、そいつが或る女をピストルで脅しつけまでして自分のものにしようとしたのですが、どうしても出来なくなって、その相手の女の人格的威力と真情に征服されてですよ、一人とぼ/\練兵場へやって来るのです。そして番兵に遭うのです。(お前はどこへゆくか)と番兵が尋ねる。(アメリカへ)と答えて、その男はピストルをこめかみ[#「こめかみ」に傍点]にあてて、ばねを引いて倒れてしまう。――これはほんのエピソードにすぎないのですがね、僕は僕の読書力の範囲内で彼の作ほどに森厳な偉大な作を知らないのです。殊に彼の『カラマーゾフの兄弟』――」
「僕にも一度その本を見せてくれたまえ。ほんとに一生に一度は身も忘れるような書物にぶつかってみたいものだ。そうしてこの生きていることを忘れてしまいたいものだ。――静子!」
「何んですの」
「こっちへおいで!」
すると永井は立ち上がって「尾沢、みんな呼ぼうじゃないか」と言った。
「みんなを呼んでくれ! 少し騒ごう。はじめてきいたドストエフスキイに敬意を表するために、せめて皆して飲もうじゃないか。それ程立派な作品を残した人なら、ね、静《し》いちゃん、随分苦しかったろうね! 己達のようなへぼ[#「へぼ」に傍点]でさえこうじゃないか!」
永井は階下へ降りて行った。電話をかける音がしきりにした。二十分も経ってから永井があがって来た。
「山崎と小西と瀬村とが来るそうだよ!」
宮岡は不快な表情を示した。彼はしめやかな物語を欲したために彼の愛読する作家の話をしはじめたのであった。それを尾沢達が喜ばない。のみならず、あの乱酔をはじめようとしている。たとえ両親を早く失って兄の手に育てられ、遠い北国の市街へ来ている彼にしても、まだ兄の手に養われる学生の身分として、中流以上の家庭の子弟としての宮岡と、尾沢達の間には極めて肝心なある世界が共通でなかった。尾沢にとってはたとえそれがロシヤの大作家であろうとも、今のさき話しつつあった命がけの話の只中にのさばり出ることは、許し難い神厳を犯す行為であらねばならなかった。耳に頭脳に尾沢達の話を聞きいれても魂の開かない宮岡には、永井や尾沢の現実的生活に対してもドストエフスキイの小説を味わうような態度にしか出られなかったのである。
「ドストエフスキイが泣いていらあ! 己の胸の中で泣いていらあ!」
ひたすらに沈黙して僅かに生々しい焼肉を食っていた平一郎は尾沢の瞳に真珠のように小粒な涙滴を見ることが出来た。そのうちにあわただしい足音をさせて「おう寒い」と二重マントを片隅に脱ぎ捨てて髭を生やした三十五、六の壮年の知識階級の男がはいって来た。この男は市街で唯一の万年筆の問屋の主人で、無妻であった。このグループの機関雑誌『底潮』の経済的方面はこの男が負担しているだけ、平常は勤勉な商家の主人だが、こうして一群の中にはいると天真の彼は寂しいといって泣くのである。
「小西さん、よくいらっしたのね。熱いのがありましてよ」
「や、結構、結構、今夜は自殺したくて困っていたところでした。有難う。呼んでくれて有難う。おう、結構、結構――」
そこへ山崎と瀬村がやって来た。山崎は熊本の男で二十七の一昨年帝大の理科を出た秀才だったが、嫌な結婚を強いられたために、自分の愛人をつれて、銀行の頭取である父の金をかなり多く携えてこの市街の伯父を訪ねて今年の春来たのであった。彼は新聞社の客員という風な資格で論説などを書いて生活を立てていた。彼の専攻であった星学に対する情熱は衰えはしなかったが、父が彼の意思から生じた結婚を許さないので、彼はその情熱を犠牲にして彼の愛人を護ることに努めていた。その一年ばかりの生活が彼を「大きな坊っちゃん」であることよりももっと深い生活を彼に知らしめていた。瀬村は二十五の工業学校の助教諭であった。彼は自分とはそう年の違わない生徒に粘土をいじくることを教えて、がっかり疲れた心身のやるせなさをこうしたグループに慰めていた。彼は一人の母を養うために自分の天才の成長を犠牲にしなくてはならない貧しい一人の青年であった。
「ロダンやミケルアンジェロやを思えば少しは心も安まろうという人もある。しかしあべこべです。安まるどころか威圧されて悲しくなって物も言う元気もなくなります。その日その日の生活さえ十分に果し得ない僕です――それにしても金が欲しい……」
その瀬村とその山崎がはいって来た。
「御一緒に?」
「いいえ、今、そこのドアのところで会ったのです」
「山崎さん、瀬村さん、今夜は飲み明かしましょう。こんな寒い寂しい夜です。どうしてじっとしておられましょう。哲人とやらは超然とすましておれるそうです。そんな哲人はそれは大方木像でしょう。さ、飲み明かしましょう」
静子が差し出す盃に豊潤な黄金色の液を注いだ。愛らしい桃割に結った少女が二人、一群の中にまじって酌をするのを忘れなかった。山崎が平一郎を見つけた。
「静子さん、この坊っちゃんは誰だあね」
「大河という方ですよ」
「大河? 中学へ出ているのじゃないかい。――ううん、それじゃこの間停学になったことがないかい。女学校の人に手紙をあげたというので」
「ええ、僕です、その大河です」彼は真面目に答えた。彼の頬も酔《アルコール》のために紅かった。
「君かね、あはははは、停学はいいね。――」と山崎はふと硝子戸の隙間から戸外に眼を注いだが、「星が流れた」と思わず叫んだ。
一室に展かれたこの青年達のやるせない酒によって僅かに慰められる鬱した精神を夜は深々と抱いていた。黎明を知らない闇であった。この鬱屈した精神は果してこの市街のこの一団に限られたるものであろうか。つらなる大地のあらゆる生霊のうちに潜むやるせなさではなかろうか。それとも日本の有為なる青年にのみ特有な心情の苦悩であろうか。人類の生活上に重い負担の石を負わす資本家的勢力の専横な圧迫の社会的表現であろうか。もしそうなら下積みとなる幾多の苦しめる魂は、いつかは燃えたって全大地の上に憤怒の火は燃ゆるであろう。しかし、それは一つの原因であり得よう。しかしそれは唯一の原因ではあり得まい。何よりの原因は、自分達が自分達であることだ。無論「自分達は自分達であることの苦しみ」と「人為的な生活の圧迫」とは同一視できない。前者は不可抗なるものであり、後者はより善くするの望みはある。またよりよくしなくてはならない。どうにも出来ないのは宇宙苦だ。宇宙苦はありとあらゆる万物に滲み入っている。自分達は僅かにこの地上の人間的苦しみをさえ征服出来ずにいるのである。宇宙苦を知らないで人間を終わるものが大多数であるのだ。――平一郎はこの夜午前一時過ぎに家へ帰った。
彼にとって尾沢のグループはもはや生活するに必要なものとなってしまった。とにかくその中に行けば生きた熱情、真の苦しみ、歓喜に接することが出来た。それは若き平一郎にとっての僅かの慰みであった。平一郎は少年期の傾注的な熱情と信愛をもって『底潮』の一団に交わったのである。お光は平一郎の急に多くなった外出、夜更《よふか》しに心配したけれど、彼女は急には平一郎にそれと注意しないだけの思慮を積んでいた。危険な峠が我が独り子の道にさしかかっているのを彼女は認めた。四十年の苦労が彼女をして急に盲目的に我が子の道に干渉することを控えしめていた。それは善いとも悪いとも言えなかった。生理的に熟しつつある平一郎の男性的目覚めがあの恐るべき放蕩と堕落に彼を導く暇のなかったのは確かに平一郎の幸福と言わねばならなかった。和歌子一人に集注され、和歌子一人に生活の意義をみいだしていた平一郎が、その生活の意義を奪われてしまった時に、彼を放蕩に堕落せしめなかったのは寧ろ奇蹟と言うべきかも知れない。彼の早くより営まれた内的精神生活が急激に伸びて、『底潮』のグループに内より湧く力の消費対象を見出したのは――放蕩に陥るよりはよいに相違はあるまい。その一すじな力の奔流を堰き止めることを控えたお光の心の悩みはまことに尊いものである。
十七の正月が迎えられ、北国の街に厳冬は長く続いていた。平一郎は毎日の学校への出席を苦艱な労働のように耐えつつ、学校から帰ればすぐに尾沢の宅を訪ねるのであった。あのように進歩した女性のように、また時には淫奔な無恥の女のようにも、また時には世間の状態に通じた人間の心理に同情をもっている懐かしい年上の女人のように思われる静子は、東京の基督教の女学校の専修科を出て、この市街の大きな銀行の事務員を
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