いえ、そうさせて下さいまし。暫くのお寂しいことは我慢なされば、そのうちに平一郎さんも大きくおなりなさるでしょうから。御自分の嫌な学校へ通わして置くのはわたしが考えても悪いことですわ。ね、平一郎さんを東京の中学へ入れなさった方がようござんしょう。――そのうちに半年も一年も経てば小母さんも東京へ出ていらっしゃるようになるとようござんすわ」
明らかに冬子は昂奮した。(まだ娘であった時分に、誰一人頼るものもない自分の面倒をみてくれたお光でないか。)そのお光のために平一郎の一身の立つよう世話をすることは嬉しいことである。お光は冬子の言葉から熱烈な、峻酷な、運命の宣言を聞いた。破壊した平一郎の生活がこのまま過ぎて元通りになりそうに思われない。東京へ出して、大きな邸から東京の自由な学校へ通わしたならあるいは平一郎の心の傷も癒えるかも知れない。しかし、相手は「天野一郎」の「天野栄介」だ。自分達にとっては仇敵の「天野栄介」の世話になる? そういうことが出来ようか。しかも冬子の手から! 自分の同胞の夫(ああこの字に呪あれ)の妾から! 出来ない、出来ない!)
「小母さん、ほんとにそう決めて下さいまし。わたしに手柄をさせてやって下さいまし。平一郎さんだって可哀そうじゃございませんの。――それに大変失礼ですけれど、中学を出なさったあとまでも、しっかりしたおつもりもないのじゃありませんか。ね、平一郎さんのお世話をわたしにやらして下さいまし、お願いですの、小母さん」
(どうしたってお世話せずにおくものか)という決心が冬子に見えた。お光にはそれが(どうあったって汝の独り子を奪ってみせる!)と天野が宣言しているように見えた。
「平一郎に聞いてみましょう。冬子さん、そうより外にわたしも決心がつきません。もしあれ[#「あれ」に傍点]が悦んで行くようでしたら、冬子さん、そうしたら、改めてお願いしますでしょう」とお光は言ってしまった。
(平一郎の運命は平一郎にまかそう)と彼女は思ったのだ。
平一郎への土産を残して、冬子は夕景に春風楼を去った。平一郎が夕飯に帰って来たときお光は平一郎に留守中に冬子が来ていったことを話した。平一郎は寂しい顔をして何も言わなかった。お光は近頃平一郎がひどく痩せたのを今更のように見た。そして遂に上京の話はいわず仕舞にしてしまった。
次の日の午過ぎ、平一郎とお光が食事をしていると、市子が、お光に平一郎さんを連れてすぐ古龍亭に来てくれとの冬子から電話だと知らして来た。お光は恐ろしいものにぶつかったように、慄えながら、重大な運命の岐れ路をはっきり見ながら、祈るように、
「平一郎、お前、もし世話してくれる人があったなら一人で東京へ行って勉強する気がありますかい」とたずねた。
「――?」
「冬子さんがね、お前が東京へ行って勉強する気があるなら天野という方に頼んでみるがどうかと話していたのですよ」
「――?」
「つまり天野さんのお邸に置いていただいて、学校へやっていただくのですからね」
「――僕、とにかく古龍亭へ行ってみましょう!」
「そう」お光はがっかりして喪神したように箪笥から新しい袴、羽織、袷を出して黙って彼の前に置いた。そして自分も着物を着替えてかなり遠い雪路を歩いて古龍亭へ出かけた。
お光は門口まで来て、はいらなかった。女中は平一郎を鄭重に案内した。畳廊下を通って行くと、向うから冬子が微笑みつつ迎え出た。
「大きくなりなすって! もう平一郎さんはすっかり大人になってしまったのね」
彼は笑った。そして(やはり美しい)と思った。
「天野の旦那様にあなたのことをお話ししたら、是非、会ってみたいと言われましたの。ね、よくはき/\とものを言わなくちゃいけませんのよ。――小母さんは?」
「どうしても中へはいるのは厭だといって肯《き》かないんです」
十畳室は金台の屏風と色彩の燃えるような熾烈な段通とで平一郎にはもく/\ともれあがるような盛んな印象を与えた。彼はその室の中央に寝そべって、一人の女中に足をもましている天野を見た。彼は手をついてお辞儀をした。
「この人でございますの」と冬子が紹介した。
「お前は何という人かね」と天野は穏かに尋ねた。
「僕は大河平一郎と申します」
「学校は?」
「学校は――さっぱりだめです」と平一郎は言って、「今、中学四年を卒《おわ》ったところです」とつけ加えた。
室内|煖爐《ストーブ》の瓦斯の焔は青く燃え、熱気になれない平一郎は眩暈《めまい》を起こしそうでならなかった。彼はこの豪奢な生活の中に悠々と寝そべって自分に肉迫する巨人をじっと睨みつけていた。彼は生まれてはじめてこういう人間にあったのである。ある根強い圧力が彼を圧しつけようとして止まない。平一郎は自分の内部に超自然的にその圧力に抗してゆく力を感じた。(負けないぞ!)
「そしてお前は何になろうと思っている」
「僕は真の政治家になってこの不幸な世を済《すく》いたいと思います」
「世を済うには金が要るようだね」
「金――は要ります。しかし金は第二です。僕は貧乏でも――」
「貧乏でも済ってみせるか。あはははは、――東京へ来て勉強してみる気はないのかい。大河君」
「母さえ許せば僕は行きたいです」
桜の蕾のあからむ四月のはじめ、平一郎は母に別れてひとり上京することになった。上野駅へは冬子が出迎える筈だった。(さようなら、母さん、御機嫌よう、僕は母さんの独り子であることを忘れますまい! ああ、ほんとに御機嫌よう! たとえどのようなことがあろうとも、僕は僕の志をきっとやりきってお目にかけます! ああ、ほんとに御機嫌よう)――平一郎は東京へ去ったのである。
「とう/\本当に自分一人になってしまった!」お光は囁いた。(姉を奪われ、兄を奪われ、夫を奪われ、冬子を奪われ、そして今また、平一郎をさえ奪われてしまった。)憎しみもなく悲しみもなかった。寂しさが静かに湧くのみである。そして、何んとも知らず、
「天野に勝つものは平一郎だ」と呟いた。
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第九章
早春の夜更けである。雪も降らず風も烈しくなかった。碧深の夜空は穏かに澄んでいた。その空の下に、東京。華やかな灯と暗との交錯を走る電車の中で、平一郎は今より彼に開かれる新しい生活と新しい人間に祈りを籠めた。量り知られぬ人間力の大潮、大いなる都会は未来を蔵してどう/\と永遠の騒音を響かしている。車窓からは高層な建築、広い道路の石畳、街路樹の濃い常磐葉、電燈と瓦斯の赤光白光の入りまじり、行き交う市民の群、自動車の攻撃的で威嚇するような探光と轟音。何んというすばらしい豪壮さだ! こう彼は思って傍に坐っている冬子の横顔を見ずにいられなかった。この大都会の只中に自分の知っているのはこの冬子一人であるのだと考えながら、多くの昇降する婦人達の中で冬子の端厳な美しさが少しも落ちて感じられないのを誇らしく思った。(東京へ来たって冬子はやはり美しく――自分だって、たかが…東…京――)市街の中央地らしい、両側の建築が宏壮で威厳と重厚を現わしている、その屋並の深い水色に荘重な五層の石造建築を冬子はそっと指さして、「旦那様の会社よ」と言ってくれた。やがて車掌が「M街三丁目」と呼ぶ声がした。平一郎と冬子はそこで下りた。平坦な大路に早春の微風が暖かく吹いていた。平一郎は黙って冬子の後について歩いた。卵黄色の陶煉瓦の四層の貴金属商の建物が赤い煉瓦の貿易商会と対《むか》い合っている横路、その横路には格子戸をいれたしもたや[#「しもたや」に傍点]や土蔵造りの問屋が並んでいた。横路にまた細い横丁があった。その小路の一筋へ、溝板《どぶいた》を踏んで冬子は入った。右手は高い黒板塀で、左手に、路の中ほどに新しい精巧な格子戸を入れた家の軒に電燈が灯いていた。冬子は「ここですのよ、わたしの家は」と言った。
「玉や、いるの、お留守番御苦労様」
「はい」と上り口の磨硝子のはいった障子を十七、八の女中が開けた。
「お帰りあそばせ。随分待ち遠しうございました。御新造様」
「そう、御苦労だったわね」冬子について平一郎もあがった。上り口が三畳でそこは押入らしく襖になっている。次の室が八畳でやはり押入らしく襖がとってある。平一郎は黙って三畳に佇んでいた。
「玉や、すぐに鴨南蛮を四つ言って来ておくれ」
「はい」
「それから、旦那様はまだいらっしゃらないかい」
「はい。今日は少し遅くなるかも知れないってさっきお電話でございました」
「そう」
玉は外へ出て行った。平一郎は八畳の明るい部屋に出て、一体「電話」が何処にあるのかしらと部屋中を見廻した。電話らしいものは見えなかった。ただ、部屋中があまりに磨かれ、調度が精巧すぎ繊細すぎて、大らかな感じが少しもしないのを認識した。彼は小さい光った長火鉢の前に冬子と正面に向い合って、さてどうしたものか(気の毒さ)を感じたのである。彼が感じたはじめての感銘が(気の毒さ)であったとは。
「ここは貴方のお住居ですか」と平一郎は思わずたずねた。
「ここ? そうですの。どうして?」
「随分狭いですね」
「そう、随分狭いわね」冬子は微笑して、「まだこの後ろにね、大きな家があるんですのよ。ここはほんのわたしの寝所ですの、ね」
冬子は囁くように話したが、あたりがあまりに静寂で、高く響いた。今のさき過ぎて来た都会の騒音はなかったことのようにここへは響かなかった。都会の中央の激しい渦巻きの中にこのような静かな空間と時が潜んでいることを知る人は知るであろう。冬子は茶を入れたり菓子を出したりした。平一郎は空腹を感じていたのでその菓子を残らず食った。
「腹が空いてしまった」平一郎が言ったので冬子もこれには吹き出してしまった。そしてこの偶然な笑いが、平一郎が上京しない前からどうしても平一郎にゆっくり了解させて置かねばならないと思案していたことを自然に言い出す機会となった。
「お腹が空いて? 今すぐ玉がお蕎麦を持って来ますからね。それよりか平一郎さん、わたし少し平一郎さんに承知して戴いて置きたいことがありますのよ――」と冬子ははじめた。彼女は伏目になって、言葉の切れ目切れ目に平一郎を真率《しんそつ》に見上げた。
「こんなことを言わなくても平一郎さんは何もかも承知していらっしゃるでしょうけれど――わたしという人間はつまりこの世に生きていないものと常々思っていなくてはいけませんのですよ。わたしは天野の旦那様のかくし女《め》――ね、分ったでしょう。そのわたしが平一郎さんをお世話するということは、出来ないことでしょう。生きていない『幽霊』が人のお世話をすることは出来ないはずですわね。それで今度も表向きは平一郎さんをお世話したのは、同じ国から出なさった奥山さんのお世話という風になっているのですからね。その辺の弁《わきま》えをよくして戴かないとわたしも平一郎さんも旦那様も奥山さんも皆が途方にくれるようなことが起きるのですから。――分ったでしょう。冬子という人間は居ないものと思っていて下さればよいのです」平一郎は冬子の言葉に悲しい感情を得た。「天野様のお邸には若様と奥様と女中さんが五人ばかりと爺やさんがいるのですから、下々の人達に憎まれないように、奥様や若様にも一生面倒を見て頂く気でなじんでゆくようにしてね、――そうでしょう、若様はたしか慶応の理財科へ行っていらっしゃるのですから、仲良く勉強なすって、ね、――いまに旦那様の片腕になるようにならなくちゃ、平一郎さん、いけませんのよ。ほんとに旦那様のお骨折といったら大したものなんですから、ね」
自分は、頼りとする冬子の生存を常に否定していなくてはならない。そしてその冬子は、天野の愛する女であり、自分はその冬子の世話で天野の邸にはいって天野の世話で学問するのである。そして邸の天野の夫人や息子には冬子の生存をまるで知らないものとして虚偽を犯し、同時に彼等と一生を共にする覚悟で親しみ合わなくてはならない。――そうした複雑な虚偽と真実をよりまぜた芝居じみたことが自分に出来るであろうかという疑迷が黒雲のように平一郎の
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