はいって来て、自分の来ようの遅かったのを言い訳して茶道具などを運び去った。冬子は、人間の本質に触れた者の感じる慕わしさといそ/\した犠牲を拒まない心持になっていた。彼女は彼に茶をすすめた。彼は彼女の茶をすすめたのを知らないように見えた。真実に知らないのか、知っていて知らない振りをするのか、彼女には分らなかった。あまりに初心な生娘のような気配であることを自覚しながら彼女は「あのお茶を――」と言いかけて自分が今まるで無能力な状態になっていることを反省して自分に恥じた。
「ありがとう」
 彼は何事もなかったように茶を飲み干した。そしてまるで久しい馴染のように話しかけた。
「今夜の七時にここへ着いたばかりだよ」
「さようでございますか」
「もう何時かな」部屋の片隅の置時計が十時二十分を指していた。
「十時二十分過ぎでございます」
「暫く世話になるから――冬子と言ったね」
「はい」
 この部屋と簀戸《よしど》越しの次の室にこの時|蚊帳《かや》を吊る吊り手の金環の触れ合う音や畳摺れの音が聞えた。簀戸が静かに開けられて、女中が手をついて「お床を敷きましてございます」と言った。草色の衣《きぬ》で蔽われ
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