た。いかなるところで、いかなる人間と、いかなる夜を過すであろうかは分りすぎた事実である。午前十時の時計の音に眼を醒された冬子は、光に照らされた珍しくそろった朋輩の眠れる姿を床の中より見廻さずにいられなかった。
 壁際に水色の軽やかな夏蒲団を正しく身体半身にまとって、左枕に壁の方を向いて平静に眠っているのは冬子より二つ年下のお幸だった。寝化粧をすることを忘れない彼女の艶々した島田髷に日は照り、小刻みな規則正しい息づかいが髪の根を細かに揺がしている。背はやや低く小造りな身体だが、引き緊った円やかな肉付と、白く透きとおった肌理《きめ》の精密な皮膚とをお幸はもっていた。お幸は東京の生まれであった。彼女の母は東京柳橋でも名妓といわれた女だったが三十を越してから運が悪くなった。唯一の後援者であった政治家が死んだとき、そのまま芸者稼業をしているにはあまりに全盛期の我儘が敵をつくりすぎていた。お幸の母は廃れてゆく容色や、肉身の若さを感じはじめると、名人に今一歩だといわれた自分の芸道(踊り)で生活しようと金沢の街へ来たのだった。その時お幸は十五の娘だったが、母ゆずりの才気と幼時から仕込まれた踊りと、小造りながらぴち/\した肉体の艶やかさは、彼女をお師匠さんの娘として成長させなかった。お幸の母は廓近くに住むうちに自然、春風楼の主人と知り合いになった。男子に対する眼の肥えているお幸の母には彼のみが多少人間らしい苦労人に見えたのだ。廓の取締である春風楼の主人の後援で、お幸の母は藤間流の踊りの師匠としてこの街でいい地位を固めることが出来たが、そうした因縁からお幸も十七の頃から春風楼の一人として座敷に出るようになったのである。小柄な彼女は盛装して群の中に静かに坐っていても少しも目立たなかったが、一人一人の対坐になる時は、きび/\した溌剌たる挙措《ものごし》の底に、蕩《とろ》かすような強い力を燦《きら》めかして男の魂をとらえるらしかった。「わたしは、はじめにお客の心持と様子と金使いとを見きわめるの。学生や番頭に心をゆるすこっちゃない。立派な三、四十の金のある人に眼をつけることが一等ですわ」といつか冬子に言ったことがある。お幸は男を深く迷わし自分の方へ引きずりこむことに悪魔的な悦びを感じているらしかった。たとえ自分もずる/\引きずられてゆく場合にでも、あるレベルまでゆけば、すばしこい仔猫のように身を翻して残された男を冷やかに見送る妖婦的な残忍な快味をさえ知っていた。しかし彼女にも、たとえそれは極めてエロチックであるにせよ、熱烈な恋愛はなかったわけでもない。彼女がまだ十八の正月、三郎さんというこの街一の呉服屋の息子で、高等学校の学生が彼女にしきりに打込んで来た。若々しい力に充ちた三郎さんの坊っちゃんじみたところが、無性に彼女には恋しくなった。彼女は三郎さんに会うときだけは一切の手管を脱却して一筋な情熱に奮い立った。恋愛の力が妖艶な彼女をどれほど美しく輝かしたかは三郎さんのみが知ろう。お幸にとって肉欲の錯混が深いだけに一日中三郎さんを離されなくなってしまった。三郎さんは学校を休む、お幸は座敷に出ないで、毎日毎夜二人は熱病人のように一室に籠ったきりだった。しかし三郎さんの家の番頭が三郎さんを連れてゆき、電話で一日中話し合うので電話を一時取りはずしたりしているうちにお幸の情熱も沈潜してしまったのである。「三郎さんのことだけはいつまで経ったって忘れることじゃない!」と彼女は言ったが、それが最初のそして最後の「我を忘れた」恋愛であり快楽であった。いかな激しい快楽と情熱の渦巻きの中にでも聡明な勘定をするだけの恐ろしい修業が今は完成され、理想的な「いい女」として、今静かに小刻みな息づかいで、安らかに眠っているのだった。
 お幸の次には二十歳になる時子が、身体全体を反らしてやや高い不調な息を鼻の中で立てている。掛蒲団を足の間に丸め込んで双手を畳の上まで投げ出した寝様は、乱暴とのみ言えないものがあった。細面の、高い鋭い鼻筋、伸ばした喉の喉頭に光は強く射していた。剥げかけた白粉と生地の青みがかった皮膚とが斑になり、頸部から寝巻の襟のはだけた、やせた胸廓が黒く脂じみているのが不健康らしくはあったが、いい縹緻《きりょう》には相違ない。彼女は二十年の生涯を、記憶に残る時代を廓で成長して来た女だった。誰かに険しい山路を負《おぶ》ってもらって来たような憶えがあるきりだと彼女は言った。十三、四迄は使い歩きにこきつかわれた。朝は誰よりも早く起きて三十もある火鉢の灰を掃除をして、すぐ灰吹きを廓から離れた小川まで行って洗って来なければならなかった。どんなに雪の降る冬の朝でも止す訳にゆかなかった。それがすめば掃除の手伝い。ようやく朝飯がすむと師匠のところへ踊りや三味線の稽古に通わねばならない。それは
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