た。
六月中旬のある日曜日の朝早くから、お光は冬子と雇い男に手伝われながら、荷造りや掃除をどうにかすました。唯一つ残っている黒い漆塗りの箪笥と長持を人夫が車に運ぶのを見ていると何故か涙がにじみ出て来た。苦い流浪の悲苦とでも言おうか。最後の移転車に冬子がつきそっていったあと、道具の取り払われた荒廃した室内を見ることは彼女をしてとうとう泣かしてしまった。言いようのない頼りなさであった。夫の俊太郎の死後、後家としての彼女に深く浸みいる人生の孤独と淋しさとであった。彼女は「ほんとに人生はひとり生まれ、ひとり死ぬものだ」と思うと涙がわいて来た。そうしたところへ薄水色のネルの単衣にたすきがけに手拭を姉さんかぶりにした冬子が、今丁度春風楼の主人が起きているし、店の妓達はまだ眠っていて都合がよいから早く行こうと、急ぐようにはいって来たのが、お光には嬉しかった。二人は淋しいながら新しい昂奮を感じて、十字街を右へ折れて緩い坂を下りた。この市外の廓でも春風楼は第一流の家であった。宏壮の古めかしい家並の中ほどに、杉の森のこんもり茂った八幡宮の境内にとなりあって、三層の古代風の破風造りが聳えていた。その家の紅殻格子の扉の前に立ったときお光はいまさらのように全身がひきしまるのを覚えた。色硝子をはめた中戸の内部には高価な下駄や足駄や雪駄の類が、裏返しになったり、横に転がったり、はねとばされたりしていっぱいに乱れていた。
主人というのは五十あまりの赤く禿げあがった頭顱《とうろ》に上品な白髪をまばらに生やした、油ぎった顔色の男であった。三尺四方の囲炉裡を控えた横座に坐って、熱く燗した卵酒を呷《あお》りながら主人は、細かいことはあとで家内が起きたら訊いてくれろ、心安い気で自分の家のようにして、家内の相談相手にもなってやってほしい、一人の息子さんがおありのようだが、土蔵の裏の離室《はなれ》が空いているから、そこを勉強室にした方がよかろう、と言った。思ったよりも苦労人らしい主人の言葉はお光には嬉しかった。隣の社の境内から朝日が静かに射しているのも嬉しいことの一つだった。
「それじゃ小母さん、離室へいきましょう。荷物はもうすっかり片付いていますから」
広い台所の板敷、中庭の木立を通る長廊下、土蔵の前を折れて横手の薄闇を白壁に沿って薄暗くなる。「小母さん、そこは湯殿よ」紅や紫や橙色の色硝子の横手の細い板敷へ、明るみが微かに射していた。陽光は躑躅《つつじ》や南天の茂みをあしらった庭から射し、庭に面して離室があった。
「ここですのよ、小母さん!」
お光は青壁の十畳敷に不調和に置かれた火鉢や棚や平一郎の机を見廻しつつ、ある淋しさと不安とありがたさをしみじみ感じずにいられなかった。
「これからは小母さんと始終住まえてわたしうれしい」と冬子は言った。「ほんとにはじめて小母さんを知ったとき、こうして一つ家に住もうと思ったでしょうか」
「ほんとに不思議な縁ですのね」とお光は悠久なある力に触れたような気がしきりにした。そして、永遠であり、不可知であり、一切の悦び、一切の悲しみの泉である生命の未来を仰ぎみるのであった。日はうららかに照って来た。
「わたし眠くなって来ました。小母さん、失礼ですがわたし一眠りして来ましてよ」と冬子は笑いながら去った。まだ春風楼にとっては真夜中であるべき午前八時であった。
春風楼の茶の間の正面に懸けられてある大時計が、午前十時の音をごおん/\と響かせた。家のいっぱいに混沌とした濁った眠りが暗鬱にとざされている。さっき中途で眼を醒まして卵酒でいっぱい引っかけていた主人も快い朝の酔いをそのまま、昨夜晩くなって眠りほうけている女将の横にしがみついて寝入ってしまった。電燈は消滅して家中が薄暗く、そして静寂だった。灯の下に動いていた夜の華やかさは、何処に見出されようもなかった。表の細かい格子目の硝子越しに真夏近いじり/\と強烈さの増してくる太陽の光が、電燈の消えた店の部屋に射し入り、照らし出していた。女達はその朝の光に浮かぶように眠れる姿をあらわしていた。部屋いっぱいに並んだ八つの寝床、枕元近い板敷に並んだ鏡台、壁際に総桐の四台の箪笥、その上に二間の吊棚があって、使いこなした、くな/\の平常《ふだん》の帯らしいものが赤い下着と一緒に垂れ下っている。脱ぎすてたままの着物が幾重ねも、赤い裏を裏がえしにし、襟垢や白粉のついた黒い生繻子の襟がべと/\に光ったまま棚に押しこめてある。蔽を被せることを忘れた一台の鏡の面が照り返す白光が、その一枚の上にじっと止まって動かない。静かだった。すう/\と寝息がする。時々うう[#「うう」に傍点]と唸るものもある。
この朝のように八つも寝床が敷かれてあることは稀であった。いつの夜も三、四人か四、五人しか自分の寝床で泊るものはなかっ
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