彼女にとって苦痛だった。芸道は彼女に少しも楽しみを感ぜしめなかった。早く大きくなって姐さん達のようにいい着物をきてお酒を飲んだり、御馳走を食べたり、男の人達と一緒に騒ぎたいものだと一心に願った。彼女は早熟で十四の春にはもう事実上少女でなかった。白粉を塗り紅をつけ、縮緬の着物をきた舞妓姿で「旦那、今晩は」と座敷へ出たときには大変な出世をしたような気がした。男から「時ちゃんは俺のいい子だね」とか「可愛いいやつだ」とか言われるのが嬉しくて堪らなかった。彼女は夢中だった。虐げられていた一切の欲念がはじめて解放されたのだった。彼女は食い飲み、騒ぎ、またあの辛いこととせられる一つのことさえを貪るように受用した。賑やかな、気のさくい、そしてすぐある欲求を充たしてくれる若い女として、彼女は学生や青年の性欲に飢えた人間にもてはやされるようになって、しかもそれで満足していた。疲れた肉体と掻き乱された魂と、低級な満足とを抱いて、この朝をいぎたなく眠っている時子の姿は、冬子にとっては浅ましい哀れさとある悲しい反省とを喚び起こした。
 昨夜、といっても今朝の午前二時過ぎにある家から帰って来て、冬子に泣くようにして、その夜彼女を呼んだ羽二重商のいどむのを逃れて来たことを訴えていた茂子は、時子の次に冬子の隣に眠っていた。冬子はわりにこの陰鬱な茂子に好意をもつことが出来ていた。どうしても芸妓などにはなりたくないと思って泣きながら母親に頼んでも、彼女がまだ嬰児であったとき、貰い受けたときから決定していた継母の意志をひるがえさせることは不可能だった。「もしわたしがお前を育てなければ、お前はどこかの山か川に白骨になっているはずだったよ」と言った義母《はは》の言葉は忘られない。彼女は仕方なしに芸妓になったのだ。彼女は婬らなことに身を任せたあとには精神が異様にたかぶって一夜中眠られなかった。眠られない夜に限って自分が痩せ衰えてしまったように考えられ、搾木にかけて毎夜心身の精粋を絞りとられる地獄だと考えられ、そうしてそのさきには真黒な死が手を伸ばしてつかみかかっているのだと考えられた。昨夜も彼女は冬子に、「死んだらどうなるのか」とたずねたり、「何だか悪い病気が身体中に循《まわ》っているようだ」と訴えたりして、寂しそうに寝入ったのだった。顔や頬の肉をぴく/\神経的にひきつらせながら――。店先から射す光には昼近い熱気を帯びて、冬子は苦しくなって来た。彼女は寝返りを打って、彼女の右手に並んでいる同じ女達を見つめた。黄金色の太陽の光は幅広い流れを溢れさしているのも知らずに、皆は夜の疲れで眠っているらしかった。
 小さな弁慶縞の掛蒲団の襟のところに二つの桃われ髪が行儀よく並んで、顔は蒲団にかくれて見えないのは、米子と市子の二人の赤襟の少女だった。米子は今年十四ではじめて赤襟になったのだが、「米ちゃんがなるならわたい[#「わたい」に傍点]もなる」と言って一つ違いの市子もとう/\赤襟になってしまった。米子は細身な静かな少女だったが、市子はややお転婆で、活気があって、花のように美しかった。市子は多くの客が可愛がったが、米子は少数ないいお客に愛せられていた。しかし二人自身はそんなことに無頓着であった。下手な踊りを踊って、そして賞められて喜んでいた。二人とも誰を明らかに父と指さしていいか分らないような芸妓の子として出生し、養われて来た女だったのだ。彼女等は人生に就いて廓より外に知らなかった。彼女等は職業、愛、道徳、――に対して一生正当な観念すら得られないのではないだろうか。
 この二人の少女に隣合って一つの寝床が空のままであった。汚れた敷布の上に丹塗《にぬり》の枕が二つ並んだままにある。それは仲のよい菊龍と富江の「共同の」床であった。彼女等は大抵一緒になることはなかったので一つの床を二人で使っていた。たまに一緒になったときは一つの床にもぐりこんで、夜がしらじら明けるころまで情人の噂などを話しながら寝入るのを常としていた。昨夜は恐らく何処かで外泊りするか、でなければ二階の一室に――かもしれなかった。
 空の床に離れて、襖をはずした敷居越しに、この家《や》の公娼が眠っていた。粗い黄色と黒と小豆色の縦縞の掛蒲団をまるめるようにして、ぶく/\肥った真っ白い太い双手を投げ出して、まるまる肉のついた横顔を見せて口をあけて本当に深く寝入っているのは鶴子という三十近い女だ。村の機織工場の女工、街の莨専売局の女工、彼女の少女から青春時代はそうして送られた。まるまる肥えたはちきれそうな肉付と滑らかな皮膚は先天的に飽くを知らぬ欲念の蔵だった。彼女は二十三のとき娼婦になった。それは彼女にとってパンを与える職業であり、快楽を与える貴重なる泉であった。彼女は職業のために疲労することがなかった。白い、生き生きした赤い血
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