いて来たり、蓄音機の高い肉声が響いて来たりする。彼は眠られなかった。祈ることも出来なかった。寝入り際に、楽しそうな女達の笑い声が聞えたが、彼にはそれを単純に楽しそうだと聞いている訳に行かなかった。笑い声は大海の面にわく小波であろう。その小波の底深くには、無限な深い海原が潜んでいるのであろう。平一郎にはその海の神秘と深さと恐ろしさが迫って感じられた。冴えた神経に涙がにじんで来た。母、冬子、和歌子、深井、天野、綾子、乙彦――ああ、自分は淋しいと彼は思った。
 次の朝平一郎はM学院へ行った。監獄のように廻らした木柵の代りに荊棘《いばら》が自然に垣根をなしていた。門の扉ははずれたままで、門側には伸び放題に伸びたポプラが微風にそよいでいた。右手の新しい赤煉瓦の会堂の、青空に聳える渋紅い尖塔、大理石の石柱の重厚さと雄渾さ、窓の色硝子に映る日光のゆらぎの美しさ。緩やかな坂路が門から伸びているその左手は、大地は円やかに膨れて高台となり青々した芝生に包まれてテニスコートがある。花色の服を着た金髪の一少女が学生らしい青年とラケットをもって競っている。
 "Never! Only one Error!" 平一郎は西洋の少女の上気した肉声を聞いた。芝生の向うには荊棘や常盤樹やポプラの垣根を廻らして邸宅風の洋館が三棟並んでいる。坂を登り切ると右手に薄水色の高い三層の建物に「高等学部」と書かれてある。建物の後ろは深いどんぐり林で、建物の前方に拡がる芝生には桜の花が咲き乱れ、二階建の新しい褪赭色の建物が芝生を越えて見られた。
 一人の黒いガウンを纏った髭を生やした温厚らしい人が運動場を横ぎって平一郎の方へ歩んで来た。平一郎はお辞儀して「あの、普通部はどちらでしょうか」と訊いた。
「どういう御用?」
「少し田中さんという方に――」
「あ、田中はわたしです」と彼はにこやかに笑った。
「天野さんに聞いて来ましたが」と平一郎は手紙を差し出した。田中は分厚な洋書らしい書物を持ちかえて手紙を読んでいたが、大きく「そう」と言った。
「四年をしまっていらしったのですね」
「はい」
「それじゃわたしの方からあなたのもとの学校へ証明書を送るよう申してやります。授業は今月の十日から始めますから、いらっしゃい」彼は気軽にしかし親切に言った。
「それじゃこれでよろしいでしょうか」
「ええ、いいですとも。十日までに教科書を揃えて置かないと後で困りますよ。――それじゃ天野さんによろしく。ほう、天野さんのお世話で、大河君というのですね」
 田中は一礼して高等学部の建物の中へはいって行った。平一郎はしばらく朝の光のうららかさに浸ってひらかれた新しい世界の風光に見とれて、自分がこの世界で生活することが出来るのだという喜悦に充たされた。
[#ここから3字下げ]
若き生命《いのち》の朝ぼらけ……
[#ここで字下げ終わり]
 テニスコートの方で西洋の少女と学生の合唱が聞えて来た。彼はかくて四月十日に基督教主義のM学院普通部五年生として登校することになった。
 平一郎を囲繞《いにょう》する不可解な根深い煩いに圧倒されるには余りに彼の生命の力は若く強い。彼の生命が地上へ出現しない以前から待ち設けられていた運命の重負と不可思議が彼を陰鬱に引き入れようとしても、彼にはそれと戦う力がある。彼は煩わしい自分の根深い環境の圧迫に打ち克ち、理由なしに湧く暗い不安と混迷とを征服しようとした。彼の前にあたらしい学校生活が待っていた。ともすれば内と外から圧倒する滅却の力と戦い、自分の使命を成長させるにそれは有効だった。学校がなかったら滅びたかも知れない。
 彼が金沢の中学でどうしても行く気になれなかったのは、自身に湧いて来る自然な天性を「教育」と「教育者」は制抑し枯死させようとすることが見えすいたからである。彼は無論そのとき意識はしない。しかし彼の意識よりも深いところで自分の生来の素質を殺す教育ならむしろ「無教育」を望むものがあったのだ。彼が求めたのは真に愛する少女を愛すると言い得る「真正の自由」である。(ああ「真正の自由!」恵まれた力の可能を地に現わさしめ、つくさしめる真正の自由! 一切の人類の偉大の源である真正の自由! それを自分は欲したのだ。)これは他の者であるなら、屡々間違いであり、あるいは他の卑しい不道徳的な欲望の仮面となり得たかもしれない。しかし平一郎においてはそれは大地に潜む芽生えが水分を欲するように、若葉が太陽の光熱を欲するようにそれは真実であり、無条件的な要求であり、「自然の命令」であった。(ああ、自分は真の自由という太陽を渇望する!)もしこの地上の文化がもっと進歩し人類の思想がもっと向上していたなら、おこさなくともよい平一郎の破壊である。あるいはそうした人類の生活を求めての平一郎の戦いかも知れない。

前へ 次へ
全91ページ中86ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
島田 清次郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング