っ[#「はっ」に傍点]とした。すると天野がじろり[#「じろり」に傍点]恐ろしいほどに睨みつけていた。「偉大な男と女」そう言ってよい天野と綾子が自分を力一杯に見つめていることは恐ろしかった。しかし、明日から新しい自由な学校へ行って勉強できることを思えば「少年の平一郎」は生き生きした歓喜と希望が湧いて来た。その浄い生き生きした感情は彼の奥深くに鬱屈しそうになる「わけの分らぬ暗鬱と恐ろしさ」に克つ力があった。彼は悦びに溢れて元気になった。
「ほんとに大河さんは羨ましいこと、わたしも男だったらお願いして学校へ上げて戴くんですけれど、ねえ、奥さま」粂は言って、「さっきもわたし大河さんは幸福《しあわせ》だわって言っていたのですのよ」
「お前だって女学校へ行ったらどうだい。靴を穿《は》いてさ」
「まあ、奥さま、わたし男だったら学校へ行きたいのですわ。女学生なんかもう死んでも大嫌い!」粂のいかにも嫌いらしい口ぶりにみんなは笑った。平一郎も笑った。そして笑いながら、綾子の電光のように強い速やかな視線を平一郎に投げるのは感じられた。天野のゆったりと充実した力を湛えた静かさは笑いながらも放れなかった。彼は女中達を軽いユーモアで笑わした。綾子も同じであった。粂が「本当にこんないいお邸はどこへいってもない」と言ったように、家庭の二人は女中達には寛厚で、しかも未発の偉大な力を源泉に蓄えている立派な「主人」であるらしかった。しかし、平一郎は、同時に彼等は女中達に絶対的な服従を要求しささげさしていることも認識せずにはいられなかった。その認識は平一郎には未明の反感を生ぜしめた。そればかりでなく、平一郎の純な認識に、天野と綾子が女中達へユーモアをもたらす余裕のあるだけ、二人の人格が渾然と一つにならずに、睨みあい対立しあっていることも明かに感じられた。――そして、彼自身の内には天野へのある意地が早くも伸びかけて来ているし、綾子の熱心な視線をも全身に感じられる。彼は二人の前にいることが苦痛になった。彼は「それじゃ明日は僕一人で行ってまいります」と言って天野の親書を懐にして自分の部屋へ去ろうとした。そのとき、障子をあけて覗きこんだ者があった。新しい大島絣《おおしまがすり》の袷をきた背の高い、そう瘠せてはいないが全体が凋《しな》びたように黒ずんで、落着かない眼付をした人相の悪い青年が懐手をして覗きこんでいる。
「あら、若様、お帰りあそばせ」と粂は言った。
「只今」と彼はうるさそうに言って火鉢の傍に坐りながら平一郎を見下ろした。
「誰だえ」天野も綾子も彼等にとっては一人子であるはずのこの青年乙彦には見むきもせず、冷淡に無関心に相手にしなかった。「今度来るはずになっていた書生なのかい」と乙彦は粂に言った。「はい、大河でございます」と粂は答えた。
「君かえ、大河は?」彼の声はしゃがれたように荒《すさ》んでいた。
「僕は大河です」
「僕は乙彦だよ」彼はうっそり笑った。平一郎はこの青年が天野と綾子との子であるのかと見上げた。広い額、のび/\と隆《たか》まり拡がった鼻、濃くて逞しい眉毛、――雄偉な天野の一つ一つの相を乙彦も具えていた。ただその一つ一つが小さく、内から湧く豊かな力がなく、全体が凋びているのである。疲労したような古びた皮膚の汚ならしさと老人のような色艶を見て平一郎は、(天野の子は早老している)と想わずにいられなかった。
「もう寝るのかい」と彼は平一郎に好奇心半分らしくたずねた。
「いいえ、まだ――」
「そう――父さん、蓄音機でもやりましょうか」と乙彦は嗄れた声で言ったが、天野は微かに両眼を開いたきり答えなかった。乙彦は大きな声で、「お雪、お雪、蓄音機を持っておいで!」と次の室の女中を呼んだ。その顔は両親の冷淡と無関心に傷つけられて、ゆがんでいた。お雪という顔中吹出ものの出た女中が蓄音機を持って来た。乙彦は針をつけながら「みんなこっちへ来て聴かないか」と言った。そのうちに蓄音機は滑稽な卑俗な、噴き出さずにいられないような「裏の畑に――」の唄を春の夜の一室で歌い出した。堪らないような肉的な哄笑が隣りの女中達からはじまった。綾子は仕方なしのように、「みんなこっちへおいで」と言った。さっきから来たくてむず/\していた女達は笑うことが茶の間へ来る資格かのようにげら/\笑いながら入って来た。そうして乙彦の存在が五人の女中と蓄音機の声音とによってぼかされると、天野も綾子も時折り軽いユーモアでみんなを興がらした。
「乙彦、今度は壷坂をやるがいい」と天野も、「群衆の一人としての」乙彦に話しかけるのである。綾子はしかし終《つい》に乙彦を顧みさえしなかった。
 平一郎は中途で自分の部屋へ帰った。母が彼の上京のために洗濯してくれた新しい蒲団を敷いてもぐりこんだ。茶の間からは女達の感嘆や哄笑が響
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