朝六時頃に彼は目覚める。もし彼が自分で目覚めず朝寝している時には粂がそっと起こしてくれた。彼は床をあげてすぐに長い縁側の雨戸を全部繰り開ける。一枚開ける度にさあっと流れ入る太陽の光を浴びる壮快さ。階下の雨戸を開け終ると彼は二階の雨戸も開けるのである。二階からは邸のうしろにある西洋館へ通じる廊下がある。彼は西洋館の窓も開ける。西洋館の窓を開けて、窓から眺める外の朝景色は何とも言えない。邸内の桜の花雲を超えて朝靄に包まれた高輪の一台が見渡され、人家の彼方に浅黄色の品川の海が湛えられている。そして黄金色の春の光が靄を破って輝いて出る荘厳さ! 夜寝るのが遅くなって眠くてたまらない朝は彼は客室の長椅子《ソファー》の柔らかいクッションの弾力を楽しみつつ二十分ほどもいねむることもあった。それから彼は自分の部屋を掃除し、廊下に乾雑巾をあてねばならない。彼にはこの仕事が何より厭だった。自然彼は粗末にして、お年という髪の毛の薄いそっぱのひどく縹緻《きりょう》の悪い三十過ぎた女中頭に小言を言われた。しかし、前庭の花崗岩を敷きつめた門内を掃くことは彼には一つの楽しみだった。薄い桜の花片が湿った土の上や花崗岩の上に散り布いているのを掃き清めて水をうったあとのすがすがしさ。彼がはじめての朝、竹箒を杖のようにして道側の桜樹を見上げていると彼の足に温かいなつかしい異様な感触がした。それはこの家の飼犬のポチが新米の彼の足に接吻したのである。栗毛の、白い斑点のある肥えた、ふさ/\した豊かな耳と、人間の眼のように表情深い眼をもったポチは、彼の足をなめてはふさ/\した頭を彼の踝《くるぶし》におしつけた。彼は思いがけぬ可愛い動物の好意をうけいれて、彼の頭をなでてやった。彼の朝の最後の用事はこのポチに昨日のあまりの飯と牛肉の煮出しとを混ぜてやることである。ポチと彼とは仲よくなってしまった。よくいけば女中達と一緒にすますこともあったが、大抵は台所の横の、O伯爵家の暗い竹藪に接した長四畳の片隅で、急ぐときはポチに食わした残りの冷飯に生煮えの熱い味噌汁を添えて食うのであった。彼は女中の腹を立てたような顔が嫌だったが、まずい食物を不平に思ったことはなかった。学校は八時に始まった。慶応義塾へ出ている乙彦は彼が飯を食っている時分にもう出て行く。平一郎は乙彦のお古にM学院のボタンをつけ直した紺ヘルの洋服に新しく買った靴を穿いて大急ぎで出かける。出しなには粂がいっていらっしゃいと言った。門を出て左手の坂を下りればM公爵の家の横道だが、彼は右に折れて同じ邸街をO伯爵の深い林を廻って二本榎のK宮殿下の宮殿の通りに出る。広大な邸ばかりの街を通りながら感じることは(これでいいのか?)という想いである。彼は自分の母や春風楼や『底潮』の人々のことを考えたからである。彼はまた若い少女の群に出あう度にもしや和歌子が居やしまいかしらと振り返ってみた。あまりによく似ているようで、「あなたは和歌子さんではないですか」と言おうとして、嫁にいった和歌子が女学生であるわけがないと思い返して寂しくなったりした。学校へみちびく坂を下りると、新しくはいった平一郎をまるで知らない筈の人達がみな「お早う」と悦ばしげに礼をして行く。平一郎には嬉しいことだった。(まだ誰一人なじみのない彼は、毎朝校舎の横手の青々した芝生に坐ってみたり、高等学部の前の記念樹の間をぶらついて、運動場でキャッチボールをしている人達を見やって親愛と征服の想いに瞳を輝かせたりして響きの懐かしい鐘の音を待った。(本当の精神的な力はどうか知らない。温かい若々しさに恵まれていることはたしかだ。)ああ、そう考え批判しているとき、澄んだ朝の空気を顫わせる始業の鐘の音は忘られないものだ。それは急きたてる鐘の音でない。懐かしい暖かい聴く者の心に悦びを呼び起こす。そうして集まらずにいられないような鐘の音であった。鐘の音につれて人達は一人一人自分の教室へはいる。平一郎の教室は階下の東端で、窓から広い運動場を越えて神学部の渋赤いギリシャ風の建物が見え、そして明快な心持の部屋だった。平一郎にはあまりに軽快すぎるような気もしたが悪い気はしなかった。彼が教授を受けながら感じた歓喜は、この学校に溢れる「若さ」であった。教師の多くは大学を卒業したばかりの、東京に踏み止まってもっと勉強しようとしている青年が多かった。数学の教師のO氏は、現に数学の哲学的根拠の意義について日本未曾有の論文を創作中であり、また彼は音楽の能才で教会堂のピアノは大抵彼が演ずるのである。西洋史の教師のM氏は、まだ本当の文学士ではなく七月にならなければ大学を出られないのだが、坊っちゃんじみた腕白気のある彼はよく平一郎の横の机の上に腰かけて、
「つまらない奴の事蹟を覚える必要はない。しかしアレキサンダー大王の真の理
前へ
次へ
全91ページ中87ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
島田 清次郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング