せ、或いは悦ばしめ、或いはくすぐったくもあらせた。そして、底には遠い旅に出ていることの寂しさが絶えず流れた。
 十時を過ぎ十一時になっても天野は帰らなかった。そのことで、冬子があるたとえようのない不安に苦しめられはじめたのを平一郎は知った。冬子のこの不安を感じることは浅ましくてそして「気の毒」なことだった。そしてお芳やお玉が冬子に対して示す一種の同情と慰めは、平一郎には敵意より苦痛で屈辱だと感じられもした。
「どこかへお寄りになっていらっしゃるのじゃないでしょうか」
「そうね」と冬子は静かに答えた。そしてお芳に、「夜具は一揃い出ているはずだね」と言った。
「はい、出ております」
「今夜はなんですから平一郎さんを先きに休ませようかと思いますの。――お玉、お前さん二階へ床を敷いて下さらない?」
「その方がようございますわね」とお玉は答えて、茶の間の押入のようになっている襖をあけた。そこには二階への階段がついていた。平一郎は冬子の家の造作が何処までも秘密じみているのに「気の毒さ」をまた感じた。
(こうまでしなくては生きられないのか※[#疑問符感嘆符、1−8−77])
「床をしきましてございます」
「そう、じゃ平一郎さん、今夜はゆっくり寝《やすみ》なさったらいいでしょう。明日の朝旦那様にお目にかかることにしてね」
「ええ、じゃおやすみなさい」
「おやすみなさい」
 平一郎はお玉に導かれて狭い階段をのぼると、そこには新しい、床と戸袋のついた赤壁の十畳の一室が開かれていた。床の置物や部屋の造作や重厚な趣味からが黄金を惜しまないで建てた部屋であることは推察された。お玉は「お休みなさい」と言った。
「ここは平常使わないのですか」と平一郎は思い切って尋ねた。
「ここはね、旦那様と御新造様が日曜の昼などお話しなさる部屋ですの」
「冬子ねえさん――」と言いかけた平一郎はあわてて、「御新造さんはいつもここで寝《やすみ》なさるんですか」と訊いた。お玉はにこやかに笑って、
「旦那様のおいでにならない日はここでおよんなさるの。旦那様のいらっしゃる夜は、さっきわたしが出て来たでしょう、あのお邸の二階でおよんなさるの。ね、分ったでしょう」
 お玉はさらに「お休みなさい」と言って階下へ下りて行った。平一郎はシャツ一枚になって絹物の蒲団の中へ潜りこんだ。芳しい甘美な香料の匂いが、蒲団の中から匂ってくる。彼は電燈を消した。遠くの方で電車の響きらしいものが聞えた。彼は母のことを想い起こした。別れて来るとき、あの汽車が動き出したときの悲しい涙が彼に再びめぐまれた。涙を流し、ほんの僅かの間であるが、冬子の「妾としての生活」が苦しいものであるように思われてならなかった。(一体天野は本当に冬子を愛しているのだろうか。冬子は本当に幸福なのであろうか? ……幸福だとは思われない!)
 早春の朝、平一郎は目覚めた。彼は母を求めて、そこにむずかる独り子の自分を揺すって起こす慈母の愛を求めて無意識に手を伸ばしたが、手答がなかった。窓の硝子越しに射す早春の覚束ない光が薄らに彼を照した。平一郎の魂が空虚に驚いて目を開いたのだ。(ああ自分はもう母を離れて遠い旅に来ているのだった。)彼は全身一種の緊張と霊感と寂しさに奮いたった。
「平一郎さん、もうお目が覚めなすって?」と玉が来た。
「お早う」
「お早うございます」平一郎が着物を着替えているうちに玉は床をあげてしまった。階下には冬子は見えなかった。玉は飯台をだして平一郎に朝食をすすめた。小さい台所の瓦斯鍋に味噌汁がたぎっている。彼は大嫌いな濃いどろどろの味噌汁をすすった。彼が朝飯をおえたところへ玉が呼びに来た。三畳の部屋の「秘密の道」から別邸の庭園わきの廻廊に出て彼は座敷に導かれた。一もと深く庭園の地に根を下した松の樹は、太陽の光熱を慕うように屋根の上に伸びあがっていた。部屋は八畳だった。次の六畳も(そこは前蔵になっていた)明け放されて、かなり広い贅沢な段通や屏風や柔らかい蒲団類の豊饒の中に、かの天野栄介は伸びやかに身を横たえていた。かつて金沢の古龍亭で受けた豪勢な威圧的な力は感じられなかったが、ゆたかな頬、高い額、額と頬を統帥するように高くのび/\と拡がった鼻、――口と瞳はこの朝は柔しく、はる/″\故郷を出てきた少年を見戍《みまも》りいたわっているようだった。お辞儀して、自分の面倒を見てくれようとする、この巨人(頭髪や頬にはまばらに白毛が交っている)から「温かさ」を感じたく思った。冬子は部屋には見えなかった。
「もっとこっちへおはいり」
「はい」平一郎は敷居を越えて彼に近寄った。玉は平一郎に座蒲団をすすめた。平一郎は敷かなかった。天野は軽く「おしき」と言った。それが決してわざとらしいのでなく、真実平一郎を天野と同等に待遇する意志から生じている
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