るのですよ。それをじいっと忍んでいるうちに、平一郎さん、人間の骨が鍛えられるのじゃなくって? ね、わたしだってはじめて悲しいということを知ってからもう十年近い年月が経っていても、未だに毎日泣かない夜はないのですものね。本当に平一郎さんは羨ましくてなりませんのよ。男に生まれて来たことは何よりの光栄じゃなくって? 暫くの間の辛い忍耐を土籠りをしていれば、時が来れば世界中を相手に晴々しく暮らせるのじゃないの。ね、ほんとに平一郎さんはいまにえらい政治家になってわたし達のように貧乏なため辛い苦労をして一生を終らねばならないようなもののないように救って頂戴」
冬子の瞳は涙ぐんでいた。低声に語る言葉の一つ一つには彼女の生涯の悲しみが浸みついていた。平一郎は崇厳な美しさを冬子に感じた。冬子がこの美しさを見せることは珍しい。それは人間の最高の美である。平一郎は冬子に潜む熱情を全身で受け容れた。暗い「迷い」が払いのけられて、青年の浄い情熱が内から白光を放って充溢しはじめて来た。(ああ、何を恐れよう。恐ろしいものがこの世に在り得ようか。自分は母と父の秘密を守る。自分は冬子を自分の魂の奥深くに湛えている。自分は天野氏に対して尊敬と親愛の情を深くしよう。自分は天野氏の妻子に対して純情をもって接しよう。そうして自分は一生懸命勉強するのだ。恐ろしいのは勉強しても実のある勉強を忘れることだ。恐ろしいのは成長の後に真に人間を救う大政治家になる志を失うことだ。ならずにはいられない。ああ、自分はどうあってもこの地上から不幸な人達を根絶して、自分のために力を尽してくれる人、自分を愛してくれる人、母や、冬子や、また、和歌子や深井の喜ぶ顔が見たいのだ。さらには自分自身が自分に向って、よく生れ甲斐があったと言いたいのだ。ここまで出て来た自分である。自分はあくまで清純で正直で全力的であろう)平一郎は想いつつ黙した。
「もうこうした話は止しましょうね。何もかも承知していらっしゃるでしょうから。今夜は疲れていらしっても少し我慢して下さいね。旦那様に会って少しお話ししてた方がいいでしょうから。そして二、三日ここで方々見物してから、奥山さんに連れ立って高輪のお邸へいらっしゃった方がいいでしょう。――お玉はどうしたのかしら。随分遅いこと」
静けさが黙せる二人に迫った。平一郎は冬子にこのように沁々《しみじみ》と物語られるのははじめてであった。彼は冬子と彼との間にあった「大人と子供」の隔てが全くとれてしまったのを感じた。母に対する心持でもなく和歌子に対する心持でもない、和歌子と母とを一緒にした心持である。その時、上り口の三畳の押入のあたりでこと/\戸をたたく音がして「御新造さま、すみませんがちょっとあけて戴けませんでしょうかしら。御新造様」とお玉の呼ぶ声がした。冬子は立ち上がって、「表から来たのかえ」と言いつつ三畳の片隅の押入のようになっている三尺戸を引くと、お玉が「どうも相すみません」と出て来た。
「隠れ道なんですのよ、平一郎さん――そこからは旦那様の別邸なんですの」と冬子は笑ってみせた。色の白い、頬の林檎のように張ったお玉は、重そうに大きな鴨南蛮の丼をそこへ下ろした。冬子はお玉にも一つをすすめ、平一郎にもすすめた。平一郎は二杯目の蕎麦を食い終わったとき、冬子の隠家と天野の別邸との「秘密の道」から、一人の五十を越した品のいい女の人が現われた。彼女は襷《たすき》をはずしてきちんと手をついて坐った。
「御新造様、お帰りなさいまし。――平一郎さんはこの方でございますの。よくいらっしゃいました」
「田舎をはじめて出て来たんですから、小母さん、また面倒を見てやって下さい」
眼の細い人のいいらしい正真の江戸っ子であるお芳は、会社の小使をしていた太助と一緒にこの別邸に住っているのであった。女中のお玉はお芳と太助との間に出来た一人娘である。――これは後に平一郎が知ったことである。
「旦那様はまだお帰りじゃなかったかえ」
「はい。さっき電話をおかけなさって今夜は少し遅くなるかも知れないから、風呂を沸かして置いてくれろって仰しゃいましたので、さっきから太助が湯加減をしてお待ちしておりますが、まだお見えになりませんようでございます。何んなら御新造さん、一風呂お先きに使いなすったらいかがでございます」
「わたしはいいけれど――」と冬子は平一郎を見た。彼女は平一郎に使わしたいと思った。が言い出さなかった。平一郎にそれが分った。四人は平一郎を中心に他愛もない世間話に時を過し始めた。平一郎をお芳小母さんによく思わせようとする冬子の密かな努力、純粋な江戸生まれで気立の美しい小母さんのおい/\に傾く好意、若い有望な異性として平一郎を認めるお玉の微笑や可愛いその場かぎりの色眼、それは或いは平一郎に浅ましい気を感じさ
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