らしかったので彼はしいた。ついで玉が茶と菓子をもって来て、去ってしまった。五十近い天野と十七の平一郎とは暫く黙して対《むか》い合っていた。
「よく来たね」
「思い切って来ました」
「お前の母さんは泣きはしなかったかい」
「いいえ、母は早く行くがいいと申しました」
「そうか、あはははは。お前は大きくなって政治家になるのだったね」
「そうです」
「お前はそうして世を済おうと思っているのだったね」
「そうです」
「わたしもお前の年頃の時分には一流の大政治家になるつもりだった。ただわたしは世を支配したかった。違うのはそこだな。あははははは」
「――」
平一郎は何故か天野を崇拝し親愛の情に充たされたい欲望と神秘な深い敵意とを同時に感じて来た。
「わたしはお前が志をとげるよう出来るだけの力を尽しましょう。わたしはお前を自分の真実の子のようにも思いましょう。しかし、お前も苦しかろうが、お前はわたしの邸の書生という形式でT街の邸で学生時代を暮して貰わなくてはならない。わたしには綾子という妻と、乙彦というお前より一つ年上の息子がいる。お前はわたしを信愛してくれるならこの二人に対しても相当の奉仕を心がけて貰いたい。――しかしこれはわたしが強いるのではない。すべてお前の自由な意思に任しては置くのだ。え、平一郎」
「はい」
「それから学校のことだが、わたしが青年時代のある時期――馬鹿な夢のような時代を過したM学院、あすこは自由でお前の性格にもふさわしく、邸からも近くてよいと思うが、それともお前に望みの学校があるかね」
「ありませんです」
「とにかくお前はお前が今燃ゆるように感じている志をのべるように全力を尽してくれればわたしはそれでよい。ただお前が多少心得て置いて欲しいことは、天野の家にはわたしの外に妻と子がいるということだけだ」
「分りました」
平一郎は全身に異様な震撼を覚えた。光と暗の強猛な交錯だった。はじめ彼はこの一人の巨人に、「お前が志を遂げるよう出来るだけの力を尽しましょう」と言われ、「世を済おうと思っているのだったね」と言われ、そこに光と悦びに輝く親愛を覚えたのだ。しかし彼の内深のところでは、「わたしは世を支配したかった!」「わたしを信愛するなら相当の奉仕を心がけてもらいたい――」という同じ天野の言葉を見逃すわけにはならなかった。「世話はしよう。その代りに汝は奴隷であれ!」こう言っているのではあるまいか。
「この自分をそうさせようとしたってそれはだめだ!」平一郎は内心叫んだ。(救って頂戴、平一郎さん)と冬子の言葉が響く。――平一郎は天野をみつめた。
「玉」と天野は呼んだ。玉は両手をついてあらわれた。
「太助と芳を呼んでくれないか。そして冬子は土蔵でまだ何をしているのかね」
「御新造様は旦那様のお召物を捜していらっしゃいます」
やがて太助とお芳が縁側へ現われた。太助は頭の禿げた頑丈な、それでいて垢ぬけのした五十男で、細っそりしたお芳とはいい夫婦であった。二人は平一郎に頭を下げた。平一郎も「どうぞよろしく」と言った。
「平一郎も遠いところから来たのだから、またお前達の方でお世話になることだから」
「いや、もう旦那様が仰しゃるまでもござんせん」と太助は禿げた頭をなでたが、顔は柔順と真情を表現していた。平一郎は、絶対的にお芳夫婦も玉も冬子も信順してしまっている天野のこの王国のうちへ今、自分自身が身を入れたのだと思った。この王国ではすべての人が「天野のために」生活しているのである。蔵前のがら/\戸をあけて冬子が衣類を手に捧げて出て来た。彼女は寂しげに微笑んだ。
「平一郎さんもうお目覚め? 昨夜、旦那様がお帰りになってから二階へ行ってみると蒲団をかぶって寝ていなすったのね」皆がしめやかに笑った。
「二、三日、見物がてら疲れ安めにここにいらっしゃるといいでしょ」
半分平一郎に半分栄介に冬子は言った。栄介はうなずいた。冬子が平一郎を見た。その視線が彼にもうここを去るべき時であることを知らした。彼はみんなに会釈して廊下伝いに冬子の「隠れ家」に帰った。彼は二階の座敷一杯に仰向けに寝転がって遠雷のような電車の轟音と薄らな早春の日射しとの交錯を感じていた。そうしているうちに淡い夢の追憶のように天野に対する敵意が彼の意識に現われて来るのは不思議だ。彼は彼の一生に力を尽そうとする天野の恩義を思って自分の心を疑い、根拠のない妄想を消そうとしてみたが駄目であった。訳の分らない、はてしのない、口惜しい淋しさが滲み出て来る。それは堪えられない淋しさだった。人類生誕の劫初より縹渺《ひょうびょう》と湧いて来るような淋しさだった。平一郎はその淋しさを噛みしめながら、天野の「妾宅」であり、冬子の「家」であるところで三日間を過ごしたのである。
その三日間は平一郎に冬子の生活
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