らう音がしたのに、三人共助かったという風に顔を見合わした。ついで階段を昇る衣ずれの音が聞えた。それ程に静かな冬の深い夜であった。
「尾沢さん、いらしって?」静子が小さな声で言ってあがって来た。彼女の前髪に白い雪片が消えかかっていた。
「静子か」
「尾沢さん」彼女はぺたり尾沢の正面に坐った。彼女は笑わなかった。
「どうかしたのかい」
「尾沢さん、わたしと結婚して下さらない?」
「突然にどうかしたのかな」
「わたし銀行を出されてしまいましたの。――あなたのせい[#「せい」に傍点]で。お腹ではもう時々動いていますわ」
「本当かい」尾沢は訊《き》いた。真面目だった。
「本当ですの」
「己は知らないよ」
尾沢は冷やかに裁判官が審判するように言い放った。静子ははじめ真面目に受け取らないらしかったが、尾沢の冷やかな表情はそれを真面目にとらさずにおかなかった。静子の豊かな肉付の顔がはじめて蒼くなった。彼女は容易にものが言えないようであった。すると、超意識的に憑かれた人のような乾いた笑いが彼女の顔を歪めた。
「わたし、ここより行くところは無いのですから。今夜から泊めて頂戴! 半年やそこら遊んで生活して行く金は持っていますから」
そう言って静子は羽織を拡げて尾沢に彼女の腹部を見せるようにした。
「もう五月ですわ」
彼女の腹はよく見ると随分大きく膨れていた。尾沢は冷やかに視つめていた。
「己の子だというのかね」
「そうよ、あなたの子ですよ」
「あはははははは。…………………………………子が出来れば男の責任にしてしまうのかい。あははははは、尾沢が子持ちになるのか。あははははは」尾沢は虚しく笑いこけた。
尾沢の家から烈しい吹雪の夜路を平一郎は帰って来ると母のお光が寝ずに待っていた。いつもなら彼女は寂しい顔をして平一郎を吐息と共に見るのであるが、今夜は彼女の顔は柔らいでいた。「平一郎、冬子さんがこの月末に久しぶりで金沢へ帰って来るそうですよ」
それは平一郎にも意外な悦びであった。冬子が去ってから足かけ二年の歳月が経っていた。その間冬子の消息は時折ないではなかったが、東京日本橋の繁華な街の裏通りに、土蔵付きの小さな別宅を貰って、そこに婆やと小娘とに傅《かしず》かれて住んでいること、天野が隔日に泊りに来ること、天野の勢力の偉大なことなどより外に詳しい冬子の生活は知りようがなかった。一年半といえば随分短いようで、しかも平一郎母子には長い、変移の多い時日である。彼は冬子に会うのが恥かしいような切なさを感じた。お光はお光で苦しい独り子のための生活を振り返ってみた。冬子が去ってしまってから日々の生活に追われながら一日も忘れたことのないあの彼女一人の胸に秘めている「埋れた過去」の運命の秘密が、新しい苦痛と恐ろしさを持って甦って来た。(何という不幸な自分達だろう。)それにしても冬子に会えることは母子にとって悦びであった。
「一人で来るのかしら。え、母さん」
「いいえ」お光はためらって、「先方の、天野の旦那様のお供をして来るですってね」
「そうですか。それじゃつまらない」
(和歌子が東京へ嫁入った、そして今、冬子がやってくる。)平一郎は訳もなくそういうことを考えて、自分の行きづまった生気のない幽鬱な現在の生活を二人の前に羞じずにはいられない気がした。ああ、ほんとに、この同じ地上には和歌子もいれば冬子もいるのだ。どうして自分は立派な人間にならないでおこうか。彼には今のままで学校へ行くことが本能的に苦痛になって来ている。彼は自分はどうしたらよいのだろうと考えた。世界が暗くなって感じられた。彼は眠られない深夜、眼を開いたまま涙をこぼした。
三月の三十日、ほんの二、三日のうちに暖かさを増した晩冬の太陽が街上を流れる雪どけの水に映る日であった。お光は寒気がするので離室で寝ていた。午後、赤々と太陽が障子に射しているのを夢心地で眺めていると、障子に人の影が映った。
「どなた」
「小母さん、わたしですの。冬子ですの」
「小母さん暫くでございました」
障子が開けられた。冬子は長い間頭を上げなかった。
「まあ、おはいり。今日は寒気がしたものですから――」そして、お光は冬子と顔をあわした。涙がゆるやかに湧くのを止めるようにお光はにこやかに柔らいで、
「ほんとに、夢でないのかしら。でも、冬子さんは少しも変わらないで」と言った。
「小母さんも――」そして冬子は啜り泣きはじめてしまった。
冬子は今のさき、春風楼の女達に会って心づくしの土産物などを差し出したのだが、皆がまるで異邦人のように隔って碌な挨拶さえしてくれなかった悲しさに胸が一杯になっているところへ、お光の変わらない静かな愛情に泣けたのである。
「ほんとに、ほんとに、いつまでも変わらないのは小母さんだけでございます」
(ああ
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