、お光の胸にこそあの昔の故郷がある。)冬子は昨夜、天野と一緒に古龍亭へ着いたこと、二日ばかりこちらにいる筈のこと、どんなにこちらへ来ることを楽しみにしていたか知れないこと、しかし春風楼へ来ても皆があまりに無愛想で悲しくなったこと、でも「小母さん」に会えて嬉しいこと、東京の生活も決して楽ではなく、始終気苦労が絶えないこと、などをこま/″\言葉少なに話していたが、突然にお光の顔を見つめて、
「小母さん」と呼びかけた。
「何んですの」お光は微笑した。
「小母さんは天野の旦那様の奥さまによく似ていらしってよ!」
「どうして?」とお光は穏かに言いかえしたが、眼を伏せた。
「わたしがはじめて今いる日本橋の家へ落着いてから間もなく天子様がおかくれになったでしょう。あの御大葬の儀式をわたし日比谷公園の前――宮城の間近なんですのよ――に旦那様の会社の持地がありますので、そこで会社のお方と御一緒に拝まして頂きましたの。わたし、そのときは随分辛い思いを致しました。まるで旦那様と何の関係もない人間のように取り澄ましていなくてはならないのでしょう。夜も更けて、もう御霊柩が宮城を出なさろうという時分、ふと傍を見ますとフロックコートを着た会社の方の間に小母さんそっくりの女の方の顔が見えましたの。わたしはそのとき自分の眼の迷いではないかしらと思いましてようく見ていますと、その方は小母さんよりか肥っていて、小母さんよりか眼の怕い顔容《かおつき》で、小母さんよりか立派でだん/\小母さんに似ていなくなりましたが、あんまり不思議で傍の人にそっと聞いてみますと、小母さん、それが天野さんの奥様なのでした。――そのとき感じた水を浴びるようなすまないような情けないような妬ましいような心持は、わたし一生忘られません。それに小母さんにそっくりなんですもの、わたし何んと言って好いか分らない位、深い恐ろしさを感じたのでございますの」
 冬子はそれから、妾という生活の本当のどん底は頼りない寂しいものであること、今でもいつ捨てられはしまいかという不安の絶えないこと、社会的に常にある迫害と擯斥《ひんせき》が絶えないことを話した。
「何んだか、こう二年もお別れしていたような気がしなくなりましてよ、小母さん、何んと言ったらいいでしょう、ほんとに自分の母親に甘えているような気がしますのよ」
 お光は顔を伏せずにいられなかった。お光は自分の心に不可抗な不安と離隔と、一切を知るものの寂しさを感じて来たからだった。(天野の妻が自分に似ているのも無理はない。彼女は自分の同胞であるのだもの! ――そしてあの天野は自分の姉の綾子を抱く次の夜はこの冬子を抱いているのか※[#疑問符感嘆符、1−8−77])
「小母さん、平一郎さんは?」
「何処へ行ったのか今朝から見えませんのです。わたしもあれ[#「あれ」に傍点]のこの頃にはどうしてよいか困っております」とお光は日々の苦労を打ち明けずにいられなかった。お光は、平一郎が停学に処分されたことから、学校を厭がっていること、幽鬱で気が荒くなっていることを打ち明けた。
「どうしてよいかわたしにも分りません。ただ、あまり干渉がましいことをするよりか、なるべく自由にしとく方があの子の気象にも好いと思ってはおりますが、それに学資だって冬子さん、中学を卒業するまで続くかどうかさえが危ぶまれる位でしてね」
 お光はしみ/″\心配そうに話した。こうした苦しみは話するだけで、幾分軽くなるものである。冬子はお光の話を一生懸命に聞いていた。そして話の中途から、熱心さで瞳が輝きはじめた。
「小母さん、平一郎さんを東京へお出しになったらいかがでして? ――え、そうなさいましな、ね、小母さん」
「え?」とお光は眼を見はった。本能的な母親としてのみ動いていた意識がぱあっと展《ひら》けて、四十幾年の苦労を静かに堪えて来た全部のお光が冬子の言葉が意味する独り子の未来を洞察した。(決して平一郎を東京へはやれない!)
「そうなすってはいけないでしょうか。天野さんには坊っちゃまがお一人しかありませんですの。それで誰か一人、坊っちゃまのお相手をして、ゆく/\は杖とも柱ともなってくれるような人がいれば世話をしてみたいと仰《おっ》しゃっていらっしゃいますの。小母さん、平一郎さんならわたしどんなにでもして旦那様に申しあげますわ。わたしのお願いですから平一郎さんのお世話をやらして下さい」
(ああ姉を奪って行った天野、冬子を奪って行った天野、間接には兄を狂わせ夫を殺し、自分達の未来を保証する全資産を尽さしめた天野、その天野は今、また自分の独り子の平一郎をも奪って行こうとするのか。)不可思議な運命のはてしない曠野の道筋において「彼奴《あいつ》天野」が次第にまためぐりあわせ近づいてくる。
「小母さん、そうなすって下さい。い
前へ 次へ
全91ページ中75ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
島田 清次郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング