を求めます。この世の運命を僕は和歌子さんに結びつけずに考えることは出来ませぬ。ああ、僕には僕よりも十歳も年上の男の人妻である和歌子さんを想像することは出来ない。僕には和歌子さんはいつまでも頬を赤くする熱情的な少女です――こう平一郎は感激した文字を深井に送ったこともある。「男子が嘗めねばならない不幸と苦しみ」――独立期が晩成であるために初恋を奪われる苦痛を平一郎は嘗めねばならなかった。堪らないことであった。
「大河君、僕も苦しい」と深井は言った。
 苦しい熱病人のように夢中で試験をすましたその夜、平一郎は尾沢の家を訪ねる気になった。彼の精神に消化し切らない食物のように和歌子のこと、深井のこと、自分のことが未解決のままで渦巻いていた。
 二階では尾沢と高等学校の学生の宮岡が熱烈に話し込んでいた。
「しかしホイットマンが、我が祭歌を浮かべるは歓喜をもってだ、汝に歓喜をもってだ、死よ、と歌っているように、死はたしかに安らかに永遠の安息だと考えられますよ」
「宮岡君、もう止めてくれたまえ!」尾沢は眼をとじて堪らなさそうに宮岡の熱した言葉を止めさせた。宮岡は情熱をさえぎられて、眼鏡越しに尾沢をじろり睨みつけた。
「どうかしましたか」
「己には性に会わないようだから、止してくれたまえ! ホイットマンはそういう風な死の思想を抱いている人とは思われないが――いや有難う。もう止してくれたまえ――」
「どう君と合わないのです。昨日も友人と彼の『草の葉』を学校で読んで思わない発見に歓び合っていたのです、どう君に合わないのです」
「ホイットマンが詩人であるからだ。死と生とを別物のように考えているからだ。死といい生というのは人間の不完全な認識が勝手につけた名称に過ぎないのだと僕は信じます。こうしていることが生であるなら『死』といわれている現象も生の一部分です。死は休息じゃない。断じてない。死もまた生だ。だから死もまた苦痛だ。死んで己達が無くなると信ずることは人間が真理を認識する恐ろしさに堪えないで自分で自分の眼をかくすめかくし[#「めかくし」に傍点]に過ぎないのだ。こうして己達であるこの己達がどこにどうして全然無[#「無」に白丸傍点]くなることが出来ると思うのか。全然無[#「無」に白丸傍点]くなることの出来るものなら、こうしてここに表われはしない。表われている限り己達は永遠に有[#「有」に白丸傍点]ることの証拠だ。この有[#「有」に白丸傍点]ることを生命だというなら生命と言ってもよい。クリストという男は永遠の生命に触れれば泉のごとく尽きずと言ったそうだが、なるほど泉のごとく尽きないことは真理だ。しかしその永遠であることが絶大な歓喜であると説くのは少なくとも己にとっては赤の嘘である。己達は永遠にある。どれ程無くなろうと思っても無であることは許されない。死という有[#「有」に白丸傍点]に変り得ても全然無[#「無」に白丸傍点]くなることは出来ないのだ。己達には全宇宙は知ることが出来ない。しかし全宇宙は遂に全宇宙で己達は知らないでも、それは永久の同じい有[#「永久の同じい有」に白丸傍点]であることは確かである。己達はその全宇宙の一部として永遠に有であることも確かである。己達は死ぬ。しかしそれは決して己達が考えるような死ではない。だから死んで苦しみが脱却されるわけではない。宗教家は苦を脱した解脱を説くけれど、その解脱というものは生に対する死、苦痛を脱したと思う苦痛に過ぎないじゃないか。苦痛という苦痛を神もしくは救済という苦痛と置き変えるだけじゃないか。要するにどうにもならないのだ。どうかしたいということとどうかしたという、それはたま/\名称を置き変えたに過ぎないので、本質は同じ変らぬことをやっているのに過ぎないのだ。人類が滅亡すれば己達はまた何か別なものになっていることだろうよ」
「また、いつもの君の哲学が出ますね、君の言うことは真理かも知れません。しかし僕はホイットマンの詩に歓びを感じることも事実です――それに、僕達は僕達以上の存在、神人もしくは人間神を予想し得ないでしょうか。例えば君の永遠の苦痛である生命も苦痛でないような――」
「馬鹿を言いたまうな。神人、人間神の苦痛が己達に分るものか。燃ゆる太陽を見たまえ! あの太陽が崩れる時が来たら、その破片から人間以上の怪物が生まれるかも知れない。神の国は苦痛の太極にあるのだ」
「――」
 宮岡は黙した。平一郎も黙していた。沈んだ尾沢の語調がひとり響いた。静寂をはた/\とかすれるような音のするのは雪が降り出したのであろう。火鉢の炭火は燃えさかって、ぱち/\火花を散らした。静かである。静けさは十分間ばかりも続いた。誰もものを言う気になれなかった。ものを言うことがこの厳かな静けさを汚すようで恐ろしかった。階下で足駄の雪をは
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